2017年1月24日火曜日

(未定)全集


全集を読む


1 つねに第一流作品のみを読め。
2 一流作品は例外なく難解なものと知れ。
3 一流作品の影響を恐れるな。
4 もしある名作家を選んだら彼の全集を読め。
5 小説を小説だと思って読むな。
小林秀雄『作家志願者への助言』

 特に作家志望というわけではないのだが、文庫本や、最近ではツイッターで流れてくる短い文章を見て「こいつは偉い奴かもしれない」と思った人の全集をできるだけ集めて読むようにしている。それもこれも、小林秀雄の上の助言を真に受けてのこと行動である。

 これは私の経験からいうのだが、こいつは偉いと思った人間の言うことは、「全集を読み給え」と言われたら全集を読むように実行してみるべきである。実行して初めて分かる失敗というものもある、これは常識だ。思うに、実行しないということは、少なくとも話し手のことを偉い奴だとは思っていないのである。勘違いしないでほしい、私は社交場の謙遜の作法を言っているのではなくて、他人の価値判断についての自分の本心を自分で知るための方法を言っているのである。謙遜はもとより口先だけでするものだ。

 読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早いしかも確実な方法なのである。
小林秀雄『読書について』

 著述家の全仕事を自室に持ってくる楽しみは、案外バカにできるものではない。この手の収集癖を第一に紹介し、紹介するにとどめておこう。続いて、第二の愉しみ、第二の読む方の楽しみはどんなものだろうか。

 大作家と呼ばれている人たちは、ほとんど五十年も昔には亡くなっており、無論現代に触れているわけではないので、作家が流行りの事件や人物に踏み込んだ内容の作品を残している場合は注釈を必要とする。かつて世界的名声を誇った文筆家、音楽家、画家、昔の文章をあたると、たくさんの墓碑に出くわすものである。これは、現代において大問題とされている多くの事件、人物は、無名の事件や人々と同様の命しか持たないことを暗に示している――。

 批評家は時評も多くするのが特徴であるが、小林秀雄の初期評論集などは、現代は知らない当時の現代についての話題を語る文章の典型と言えよう。それでいて、彼の全集が第一巻から現代の読み物として通じるのは、この男が話題にした多くの考えは、いつの時代においても問題であることを論じていたからであろう。大作家の著作群を読む楽しみや興味の源泉は、一つには、大体このところから湧いているように思われる。

 二つ目を挙げるならば、私などは、ご覧の通り書くものであるから、一種の例文名文集として使っている側面を指摘しておく。大作家らも長いことうまく書こうとしていると、名人になっていくもののようで、ずいぶんと世話になっております。

 しかしながら、一方で、ここに書いてあるものはうまく書こうとして、正確さを欠いた名文が出来上がったのではないか? という疑念もある。これは、画家が描く風景画は、ある実在の街を題材にしているのは間違いないが、美しい画面を作るために建物が移動しているのとまったく同じ事情による。戦後、小林秀雄は、「自分の機嫌をと」りながら文章を書いていたらしいが、吉田秀和が、小林秀雄の鉄斎についてのエッセイについて、こんなもの「美文にすぎない」と言っているのは理由のないことではない。

 詩人のマラルメは、「詩はイメージで書くのではない、言葉で書くのだ」という意味のこと言っていたらしい。この際マラルメが言っていようが誰であろうがよいのであるが、これは一般に考えられている言葉の用法ではないことはわかるだろう。ひとは何かを伝えたくて言葉を使うのではないのか。

 作文の名人ともなると、まずい文章は真実すらも捻じ曲げると考えるものだ。ヴァレリーなどは過激で、詩の中で歌われた思想は、詩の厳格な韻律の法則と言葉がもともと持っている音楽性の如何によって出来上がったもの以外にない、それだけではない、言葉の韻律がこの世に新たな思想をもたらしたとまでと言っている。韻文に限らず、散文においても、論理以外の力を借りて読み手を説得するものであり、その一環として例えば韻文流の音楽性を取り入れているものもあるため、ときに全くの正論と思った一文の感動は、内容思想意義よりも言葉が作るメロディーに感心したに過ぎない場合もあるものなのである。ここから、ショーペンハウアーが、文章をしたためるにあたって、重要なのは、正確な文法の使用と比喩の重要性についてであったことも何となく察せられる。彼は、非常にこだわりを持った文章家である。それは『読書について』の一文を読めばわかる。それでいて、あの大の音楽愛好家が、言葉の音楽性について全く鈍感であったなどと言うことは考えられない。彼が文章をひねるのには、音楽性という作文芸術の感動を自著にもたらす目的よりも高次の目的があったためだ、それはおそらく真理をとくためなのである。

2017年1月23日月曜日

ディケンズ(池 央耿 訳) /『二都物語』

二都物語 上 (古典新訳文庫)
ディケンズ
光文社 (2016-03-11)
売り上げランキング: 19,353

 全世界2億部の大ベストセラーだとのこと。売れた売れたと言われているソードアート・オンラインシリーズも2000万部で、これも大変な数字だが、日本全国民を凌駕する人間らを魅了したことを意味する、二億という数字の巨大は、文字通り桁が違うという感じがする。

 といっても、自分にとっては取り掛かりやすい作品ではなかった。しかし、そんなこともこれまでのようだ。旧訳では回りくどくてどうも内容がつかめなかったが、池氏の訳では流れがよくなっており、読みやすさが増した。

 この物語の翻訳は二種類持っているが、訳文は、こちらの方が優れている。あとで書くように特に好きな本というわけではないのだが、前に買った本では最後まで読みとおせるのか不安なレベルだったので、二冊手元にあるのである。

だが、私には合わなかった


 『二都物語』革命期のパリとロンドンを舞台にした、政治運動の荒波に巻き込まれた人々の群像劇である。バルザック以来、われわれの住んでいる町を主人公たちが歩く小説は一般化したようだが、ディッケンズという隣人がいなければ仕事が全然はかどらなかった作家からしてみれば、当然の舞台であったといえるのかもしれない。そして、社会を描くということは、社会に対して一定の判断を下すことを含んでいる。

 ディッケンズの社会に対する一家言は、同時代のサッカリーとともに社会の不正に表立って嫌悪を示していた作家と見なされているところに現れているが、ディッケンズは加えて暴徒と化した大衆というものも生理的に嫌っていたようである。少なくとも「忘れもしないあの二月革命」とは書かない。あれほど皮肉を詰めこんで描写した大公閣下(フランス)の朝の支度を書いた150ページあとには、見るも無残にさらしものにされた元大公を獣的に破滅させる場面を延々と描いている。これは例の一つで、ロンドンの町については、道端で酒樽が割れてしまいこぼれた酒を近所の住民らがそろって舐める様子から始まる。ロンドン市民は道をなめる。主要人物ダーネイの実家が領民によって荒らされている場面(イギリス)もある。いずれにしても彼の描くところ、一般には映画的と言われているようだが、それは一括して人の運動を捉えるという点で一致しており、その運動は単純である。彼はこう言うものを氾濫した川の濁流くらいにしか考えていなかったようだ。濁流は泥を大量に含んでいる。
 ディッケンズを指して抑圧された人々の最大の同情者という評判は、隅に注釈を要する見解であるように思われる。

 ディッケンズが肯定的描くのは、一般に肯定的なものと思われている物、会話の楽しみ、交流の楽しみ、家族の情愛というものだった。私などは、作家はどうしてこう言ったものの最大の愛好者の顔をしながら、執拗にロンドンの貧民街やパリの暗黒時代に隣り合わせで居続けようとさせたのかと不自然に思った。無論、読者は日常の退屈をしのぐために小説を読んでいるのだという作家の実生活上の要請があるためでもあろう。ささやかな幸せと凶暴な破壊衝動の対比が、読者の関心に臨場感と共感の薬味を添えたのかも知れない。それにしたって、下巻の筋は私には不可解である。ダーネイは何故人語を解さない暴徒を説得して囚人(投獄は冤罪によるのだとか)を助けようとしたのか。作家は、それは要するに正義感によると書いているのだが、まぁ、彼の発心は大目に見よう、作家の無理筋を見つめまい。しかし、関係者一同が、生命に関わる無理難題を吹っ掛けられてダーネイの行動に一切の疑問を挟まずに根回しに取り組むのは、かなり不自然である。妻の心からの告白(と書いてある)も媚態を感じてしまう。旦那は妻と子供を残して正義の実現のために死地へ旅立ったのであった。作家は、いくら不自然であろうと利他精神読者に疑問を挟むのは人倫にもとるのではないかとでも言いたいのだろうが、こういう理論武装も幻影として見えるところにまで私の退屈は来ているらしい。プロットの不自然さなど問題ではない。私は登場人物がどういう顔をしているのかさえ忘れようとしている。


二都物語 下 (古典新訳文庫)
ディケンズ
光文社 (2016-03-11)
売り上げランキング: 15,463

2017年1月21日土曜日

ゴーゴリ/『外套』、『鼻』

外套・鼻 (岩波文庫)

 ニコライ・ゴーゴリの代表的短編奇憚『外套』、『鼻』を収めたもの。翻訳は平井肇氏による。表紙の紹介によれば、平井氏はゴーゴリの名翻訳者として知られているようである。訳文は、やや古めかしいものの、読みやすかった。

ペテルブルクもの(ロシアのリアリズム)



 おさめられた両作品とも、ペテルブルクを舞台にした話である。加えて、話はリアルタイムの出来事をとして書かれているのが特徴。ペテルブルクの読者は、現代で言うところのニュースやドキュメンタリーを見るような感覚でゴーゴリの小説を読んでいたのかもしれない。もっとも、外套を盗んで歩く幽霊だとか、鼻が役人の姿をして街を歩き回っていただとか、一向にあり得そうもない話が並んでいるわけだが、ニュースやドキュメンタリーとは時にそういう種類のものではないだろうか。
この手の小説の書き手と言えば、フランスのバルザックがいる。彼の代表作『ゴリオ爺さん』にはつぎのような一節がある。

果たしてこの物語がパリ以外の人間に理解されるものかどうか、検討してみるのもいいだろう。なるほど、この物語の背景を説明するこまごまとした観察や地域色を多分に含んだ描写は、もしかすると、モンマルトルの丘とモンルージュの丘のあいだ、今にも剥がれ落ちてきそうな漆喰壁と黒い泥の川とがつくりだすパリというその名高い谷間でしか、評価されないかもしれない。(バルザック(中村佳子訳)『ゴリオ爺さん』8頁)

バルザックとゴーゴリに共通していることは、なんといっても自分が今住んでいる町に対してどういう種類のものであろうと愛着を持っていたという点である。当時のロシア文学会は、フランスほど洗練されているものではなかった。ツルゲーネフのような後代にいたっても、ロシア語で物を書くには読者のために様式を幼稚化させざるを得なかった(ロシアの読者は恋愛のない物語を物語と認めなかった)。こういう中で、リアリズムという最新式の文学上の思想がペテルブルクの土壌に根付いたのは不自然なくらいだ。両世界評論誌の風にのって技巧が伝搬されたのもあるに違いないが、おそらく、ゴーゴリの向けるペテルブルクへの愛着がバルザックという先駆者を発見せしめたためであろう。行く道の先に導があれば、あとはそこまで走れば良い。

パリの街の名前が、渋谷、銀座、六本木や霞が関といった具合に現れても、その臨場感はわからない。それと同様にネフスキー通りと言われてもピンとこないものであるし、上で引用した通り、書き手もそのことを知った上で書いている節がある。二人はどういうわけか非常な自信を持っていた。バルザックは、上の文章に続けて次のように書いている。

そこは正真正銘の苦しみと、大抵はまがい物である悦びが氾濫する谷だ。つねにめまぐるしく変化しているから、そこで多少とも長持ちする刺激を生み出そうとすれば、常軌をいっした何かが必要となるはずだ。(中略)このドラマはただの作り話でもなければ、小説でもないのである。「すべてが真実」なのであって、真を突きすぎて、誰もが、どこかしらに自分に通じるものを見えつけることになるだろう。(同上)

 バルザックは、「この町の人間であろうとなかろうと、おそらくこの物語を終わりまで読めば、きっと涙をこぼすだろうからだ。」と前置きしていることも付け加えておこう。ゴーゴリとて同じ思いでペテルブルクの下級官吏を描いたことだっただろう。二人は、文明を芸術家的に、つまりは情緒的にとらえるという点で一致していた。

第二のゴーゴリ



 ドストエフスキーの綽名は多いが、その中の一つに「第二のゴーゴリ」というものがある。大抵『罪と罰』以前の作風を指してそのように呼ばれる『貧しき人々』はどの典型といえよう。ただ、『罪と罰』以後の作品においても、巣立った巣の匂いはいつまでたっても消えないものであろうか、ゴーゴリ風の書きぶりは見られる。

 そうこうするうちに、この稀有な事件の取沙汰は都の内外に広がって行ったが、よくある例で、いつかそれにはあられもない尾鰭がつけられていた。当時、人々の頭がなんでも異常なものへ異常なものへと向けられており、ごく最近にも磁気学の実験が公衆の注意を惹いたばかりの時であった。そのうえ、コニューシェンナヤ通りの踊り椅子の噂もまだ耳新しい頃であったから、忽ち、八等官コワリョフ氏の鼻が毎日かっきり三時にネフスキー通りを散歩するという評判がぱっと立ったのも、不思議ではなかった。物見だかい群衆が毎日わんさと押しかけた。

 これは『鼻』からの引用だが、こう言う書き方が、例えば、ドストエフスキーが『白痴』でムイシュキンとロゴージンとナスターシャの事件を概観するところや、『悪霊』でスダヴローギンを紹介する段で応用されていることにすぐに気が付くだろう。しかし、ドストエフスキーがペテルブルクを描いたのは、ただ愛着のためではなかったし、ラスコーリニコフにペテルブルクを歩かせた際、「――稀にではあるが、あることにはあり得るのである。」という注釈を必要としなかった。


 『外套』でゴーゴリは、隣人愛を説いているとのことである。一方で『鼻』では、闊達な芸術的手腕を見ることができるらしい。解題ではそのような事が書いてあった。正直なところ、私はゴーゴリの言いたいところのものにピンとこなかった読者であるから、解題を書いた平井氏の言うところはよくわからなかった。しかし、知らない土地の知らない時代の話であっても、退屈しなかったことだけは書いておかなければならない。私は役人たちが織りなす喜劇を楽しんだのである。また時が経って読み直してみると、見えなかったものが見えてくるかもしれない。

Amazon商品詳細


狂人日記 他二篇 (岩波文庫 赤 605-1)

2017年1月19日木曜日

メルロ=ポンティの文庫本

 作家の名前もツイッターで流れてくる短文で知る時代となった。 メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)


知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)

2017年1月7日土曜日

東京国立博物館特別展「古代ギリシャ 時空を超えた旅」 



 前回の秦の始皇帝展と同様、上野に行ってみて特別展の内容を知ったようなものだったが、入ってみれば、それなりに楽しめる内容であった。ギリシャ文明2000年分の縮図だろうか。また、日頃引用でお世話になっているアリストテレスの顔も拝むことができたことも書き添えておこう。

クレタ文明


 展示は、かつてギリシャ南方エーゲ海で栄えたクレタ文明の品々が並ぶところからはじまる。西暦で言うところの前1600年の文明で、我々がギリシャと聞いて思い浮かべるアクロポリスやパルテノン神殿が出来上がるはるか前のもの。地中海の幸で栄えた文明の作品に堅苦しいものはなく、写実に忠実というものも少なかったが、おおらかさと解放感は実によく出ていた。手元の山川出版社『世界史総合図録』によれば、クレタの文明は平和的海洋文明と呼ばれているとのことだが、学術的呼称に似つかわしくない「平和的」という言葉をどうも使いたくなるところがある。後に例の大建築や、写実的大理石大彫刻群でもって自然模倣を謳歌したアテネに比べれば、いかにも素朴であった。

 上述の図録にも登場する有名な、タコの壺も展示されていた(右上写真)。一見すると見る者を威嚇するようなエキゾティシズムの典型にみえるが、実物となると不思議なもので、騒がしいものではなくささやかな楽しみの範疇にはいるものだった。この区画で私が気に入ったのはオリーブの葉が描かれたレリーフ。上流階級の屋敷にあったとされ、緑のさわやかな色合いがいまだに忘れられないのだが、売店で見かけた写真にはこのコントラストはとらえられていなかった(図はネットで探しても見つからなかった)。この時期の芸術は、ささやかな楽しみを与えるものとして機能していたのかもしれない。当展示のチケットや広告として使われている漁師の絵(上図)もクレタ時代のものである。

ミケーネ文明


 つづいてミケーネ文明の品が現れる。右図のミケーネの獅子門のレプリカがこの展示の門となっていた。前文明と対比して戦闘的文明と呼ばれているらしい。なるほど展示品には甲冑姿の兵士が描かれた陶器が並ぶ。このころから写実への傾斜が激しくなってきているようである。昔ルーブルかどこかの有名な美術館から、黒と朱色の陶器が運ばれてきて展示してあったものをたまたま見たことがあるが、色に関してはまったく同じだった。黒はともかく、朱色のほうは、ありそうでない品のあるつやの消された色合いで、なんとも美しい。部屋を順にみて行くと、兵士の姿は消え、チェック模様が壺に描かれるようになる。兵士から百年程あとの流行だそうだ。殺陣を描くのに飽きた陶工たちは、幾何学模様を描き始めたらしい、柱に植物の模様を施すようなギリシャの人が、こういうものを作っているとは知らなかった。幾何学模様といえばアラブのアラベスクなる芸術を思い起こされるが、ギリシャでは四角が中心で色も二色、見た目では中国で見られるような模様に思った。
  ミノタウロスをかたどったとされる彫刻があって、これは実に見事な出来栄えと言わねばならない(公式サイトに写真がある)。まこと立派な精巧な牛の頭の写実をもととしている。輪郭は実物に忠実になろうと緊張している。


ヘレニズム


 『イリアス』が成立し、アクロポリスが出来上がったころの作品がトリを務めていたが、やはりここは圧巻であった。ヨーロッパでは、古典と言えばこの時代のことを指すらしい(凄まじい雅称である)。後世の模範となる一時を誇ることはあった。大理石彫刻は、かけていようが何だろうが、表面はきらきらと輝いて美しく、その姿は優雅と威厳をもって力強く勝ち誇っている。フリーズ彫刻の模造も展示してあった。数千年を一気に見て回って、ここにたどり着くと、いきなり文明が現代にまで行きわたったという感すらあった。アリストテレス像はここにある。

*

 ある有名な創作家が、東京国立博物館の展示品はいい、鬼籍に入った人物の作品しかないからだ、落ち着く、と言っていた。これを聴いて、私はむやみ な反感を覚えた。その人にしてみれば、過去の作品とは、過去の作品として、ひとくくりにすることができるのである。現在以外の、確実に過去に流れ去ったか つての現在を無視すれば、そういう言い方も可能であろうが、こんなものは頭の幻想である。お前の作ったものは、作者が死ねば姿が変わるのか、否。

 作品は、作者の存在など無視して現代にまで運ばれてくる。博物という人間の営みは、その自然作用を合理化した姿であろう。今回のギリシャ展もそのような気見合いのものであった。相も変わらず、数百年の作風が一か所に集められていた。
 気まぐれでも入ってみるものである。

 展示会の公式ページはこちら

2017年1月3日火曜日

カフカ(高橋義孝訳)/変身 - 1

『変身』について


 フランツ・カフカ(1883-1924)の『変身』ついて感想を書くのであるが、もうほとんどの人間にとって、新鮮な気持ちでこの物語に接することは不可能のように思われる。近現代ドイツ文学の代表的問題作として、聞いたことはある、あるいは、名前だけは知っているとされる、そういう作品のひとつだろう。知名度のある作品の多くはこの手の宿命を持っているものだ。私にしても、昔高校生をやっていた時に、安部公房氏の『棒になった男』なる作品に影響を与えた作品として紹介されたことで覚えているくらいだから、まじめな人は鮮明だろう。とはいえ、真面目とは徹底した試験対策を意味するので、せいぜい「この作品に影響を与えたとされる作品名を答えよ」という問いで点数を稼ぐため、頭に詰め込んだ文字列として知っていたにすぎないだろう(受験にすら使えないのである)。何となく偉大な作品だろうというイメージはこのような過程を経て出来上がるものだ。しかし、イメージとは、バカにならぬ宣伝方法である。何年とたった今、私は本屋で目に入った背表紙に記憶が刺激されたのをきっかけに、この本を手に取ったのだった。私も伝統的な古典作品への道を歩んだと言えるのである。
 年齢が成熟をもたらすことはない。一方で、イメージからなる後光ははっきりとしている。ドイツには、フランツ・カフカ賞なるものまであるそうな。敷居の高さを感じている。『棒になった男』をあしがかりに、『変身』について書いてみたい。

 私の頭に残っている『棒になった男』の記憶は、授業風景とわかちがたいものがある。この小説の主人公は40代から50代の男性なのだが、もうこれだけで主人公はちょうど目の前の国語の授業を仕切っているに教師に違いあるまいといった具合に結びついている。彼は、家族サービスの一環だろう、家族を連れてデパートに来ている。昼飯を食べ終え、子供は屋上の簡易遊園地に任せて、妻は再び買い物へ出かけた。自分は屋上の脇の欄干に身をゆだね、下の方で響く車の往来の喧騒をぼんやりと耳にしながら、怠惰な雲がぷかぷかとうかぶ空を仰いでいる。のんきに煙草でも呑んでいたかもしれない。この余暇のいかにも退屈な風景は、授業の生ぬるい空気そのものであった。窓の外では体育の授業のほか、それこそ雲が浮かんだ青空以外に見るものがなかったのかもしれない。黒板に視線を戻せば、まるでこれから棒になろうとしてる中年太りの男性教師が、よく響く声で、聴く者を絶望させる朗詠調でもって、じっくりとこの物語を読み込んでいる。

「そのとき、ハッっとした瞬間に、手すりから体が滑り落ち、男は宙を舞った。とっさに目を閉じて、気が付くと、道端に横たわり、棒になっていた。――しかし、なにもおこらない――」

 教師はこのあたりから、フランツ・カフカの『変身』の影響について云々するわけである。

『棒になった男』と『変身』


 多くの人々にとって、批評家が好んで使用し、今日に至るまで濫用の感ある「影響」という言葉を知ったのは、『棒』に関する授業で『変身』の名前が現れた時ではなかっただろうか。名作の成立過程は、まるで小説の筋のように組み立てられるのが普通である。古典は未来の名作の踏み台として存在するといわんばかりだ。影響と書けば、提灯持ちは対象の作家を偉人の後光に包むことができるし、批評家も古典通であることを言えるので、なくなる気配が全然ない。とはいえ、大作家連中が古典(昔から名高い作品)に全く興味がなかったなどということは、ちょっと考えられないのである。影響は、確かにある。いくら天才中の天才と言えども、数年で文章家になるには、少なくとも手本が必要である。彼らは古典を参照し、どこかの部分はうまい言い回しだと思って自分の作品の中に取り入れ、プロットを拝借し、言い回しも物語も全くの別物の話に思想上の移植手術を成功させた。このように、影響といっても一口に処理できるものではなく、それは物語の数だけ物語があるようで、手間のかかる作業なのである。

 『変身』が『棒になった男』に影響を与えたという話はもっともなものだ。こんな珍奇な設定を現実の場面に持ってくることを思いつくものではない。しかしながら、それは安部氏がある日突然主人公が人間ではない何かに変わってしまうというシュールレアリズム的設定や文体に興味を持って自作に応用したからという点に限られるのであって、『棒になった男』が『変身』の主題による変奏曲とは言えない。二つはまったく別のものを描いている。  

 『棒になった男』の主人公は、運悪くデパートの屋上から転落し、空中で棒になり、道端に落ちる。問題なのは、「なにもおこらない」ことだ。往来は奇譚に似た現象を目の当たりにしているはずが、不気味なほど平然としている。なるほど、棒や男がビルから落ちてくることは、まぁ、よくあることかもしれない、それはそれでよろしいが、デパートには屋上で遊ばせている子供となかなか買い物から帰ってこない妻がいるのだが、そちらに関しても何の音沙汰もないのはどういうことか。まるで自分は人間であった当時から棒のような存在ではなかったか。これが主人公にとっての事件なのである。どこかで偶然見かけた誰かの評のように、『棒になった男』は、疎外の叙事詩である。

 一方で『変身』となると事情が大きく異なる。  『変身』では、グレーゴル・ザムザという働き盛りの男が、ある日目を覚ますと虫になっていたところまでは似かよるけれども、虫への変身は導入にすぎない。逆に多く紙幅が割かれているのは、ザムザ家を襲った不幸についてだ。奇譚の力は、読者に対して奇妙な生活スタイルを提供するにとどまるものではなく、一家に対して恐ろしいリアリズムの威力でもって襲いかかる。ザムザ家の収入は、外交販売員であるグレーゴルの収入に頼り切っていた。
 グレーゴルの父は、ずっと前に家業で破産して借金がある。母は肺病に侵されている。妹は働くには若すぎるうえに、社会とは何の関与もなくヴァイオリンを弾いて閑暇を過ごすといった体であった。一家にとって、グレーゴルが虫になってしまったということは、グレーゴルが死ぬか行方不明になったか、もっと忠実に言えば怪我で体が動かなくなってしまったということであり、つまるところ、収入が途絶えたということを意味する。ザムザ一家は、グレーゴルが消え虫が残るという事実を、否が応にも受け入れざるを得ないのである。作者がこの恐ろしく単純な悲劇のシステムを選んだ点は、注意してもよい。それに、カフカの選んだ文体である。おそらく、カフカが事実や風景に対してほとんど詩的な情緒をあたえることをせずに、カメラによる撮影のような透明度の高い文章を礎石として物語を組み立てているのは、この物語がいかにも現実でおこったこととして我々に提出したかったためだ。

 文庫本の裏には『変身』の紹介「ふだんと変わらない、ありふれた日常が過ぎていく。」は、うまくないのである。これはむしろ『棒になった男』に対して贈られるべき説明で、変身によって一家の関節が外れてしまった『変身』の冷え切ってしまった団欒風景には似合わない。
→2へ

Amazon商品詳細
HMV商品詳細ページ