2017年2月28日火曜日

国民文化研究会(小林秀雄)/学生との対話

学生との対話 (新潮文庫)

小林秀雄の対話編への一言

 小林秀雄の対話編が出た。対話編だから、文章とは違うわけである。「はじめに」にあるように、小林秀雄は、書くこととしゃべることを明確に分けて書いていた人で、自分の講演記録が本に載ると、如何にもうまくしゃべっているがそうではない、あとで手を入れるのです、とかなんとかそういう風な事を書いていたはずである。講演者の手が入っていない没後出版のものは、どうも全集の従物として読んだほうがよさそうである。

 講演と言えばおしゃべりが中心なので、文章に比べてどこか柔らかいイメージを持つ人がいるかもしれないが、そういうわけでもない。当然、講演と質問会は世評ある文士の書く物を前提として話が進むので、話はやや専門的である上に、断片的な話題が多い。実際、中身はベルクソン、ドストエフスキー、本居宣長など、全集を読み終わった人向けというべきものが並んでいた。小林秀雄がどんなものを書いていたのかとか、どんな人物なのかを知るには、新潮社から出ている文庫版アンソロジーをお勧めします。小林はしゃべりより書く方が上手い。

 この本の多くを占める対話編には、いろんな事が書いてあった。私にとっては、既存話題への原著者による具体的な補足一行たちであった。 
 どうやら私は後ろの方で國武氏が抱いているような感動は無いようであるし、かといって、またその後ろにある後書きのような解説家になることもできないようである。以下に気になったところを書いておくにとどめる。

ドストエフスキー


小林秀雄著『カラマアゾフの兄弟』
 小林秀雄の書いたものの中で、私が一番好んだのはドストエフスキー関連の文章である。全集(第六次)を集めるのにも、ドストエフスキーが絡んでいるか否かで収集の優先順位を付けていた。これら文章が他と違うのは、論文の執筆者が、まるで刺し違えんばかりの熱気を持って対象を取り上げると同時に、燃え上がるような洞察と名刀のごとき分析を繰り広げていた点である。結論などなくてもよい、対象もドストエフスキーでなくともよかったかもしれない。理論のもたらす眩暈と心理的に喉元に迫る筆致。散文が生んだ精神の殺陣、これは私の知らなかった世界であり、文学の可能性を具体的に示すものだ。小林秀雄の散文の中でも無類の魅力を封じた一連の作品は、今でも私が文章を書く上で模範としているものの一つである。

 一方で、この一連の作品はもう一つの傾向を持っている。未完が多くみられるという点である。上で引用したのは、傑作『カラマアゾフの兄弟』であるが、この一文の後は空白である。これだけ読者をあおっておいて(未完)は勘弁してほしい。作の芸術的側面を犠牲にしてまで沈黙を守らねばならなかったのは

ベルクソン

 この本には講義『文学の雑感』と『信ずることと知ること』の二つが載っている。『信ずることと知ること』については、全集所収のものとは別の初稿版(『信ずることと考えること』)も載っていて興味深かった。本筋に大きな変更はなかったが、細かいところは変わっていて、例えば、ベルクソンの『精神のエネルギー』に含まれているロンドンでの講演を引き、科学が計量風のやり方で精神や意識の領域に入ってくるのはおかしい、と言うところが詳しくなっていた。小林は、脳髄の原子の運動を測れば人間の運動を読み取ることができるという心身並行論からくる仮説を難ずる。そもそも、彼は精神の問題を脳の動きの問題に置き換えたことが気に入らないのである。「科学は君の悲しみを計算する事はできないだろう」云々。

常識で考えてみよ。一体この自然には、無駄というものがない。ある一つのものが、片方では脳髄の原子運動に翻訳されて表現される。同じものが片方では意識の言葉となって表現される。一体自然にとって、こんな贅沢は許されるだろうか。もし本当に脳髄の運動と、人間の意識の運動、精神の運動が並行しているならば、どうして自然はこの二つの表現を必要としたのだろう。それなら、精神なんかいらないじゃないか。盲腸は人間の器官として役に立たない不用のものだから、なくなってしまったじゃないか。無駄なものは、とう昔になくなっているはずではないか。第一、習慣になれば意識などいらないでしょう。そんな時には、諸君の意識というものはすっかり退化して、なくなっているでしょう。(『学生との対話』40頁)


 どういうわけか、この部分が削除をこうむっていた。何か指摘をうけたのかもしれない。この一文に誤りがあったとしても、対人関係は人工衛星を飛ばすようにはいかない。我々は人と対面する時、ある精神と対面しているのであり、それを原始人並みの観察と対応で何とかしのいでいるのが現状であることに変わりはないのである。