2018年11月10日土曜日

ヘミングウェイ/中庭に面した部屋

新潮 2018年 12 月号
新潮 2018年 12 月号
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新潮社 (2018-11-07)

 ヘミングウェイの未発表作が出るとのことで、生まれて初めて、文学雑誌を買い求めたのだった。

 ヘミングウェイの未発表作の題名は『中庭に面した部屋』で、まるで絵画のような題名だが、中身も中身で、数人の若い軍人が、ホテルの一室で酒を飲みながら駄弁っているだけの風景画みたいな小説である。読後感が浮かぶ前に、久しぶりに意図を察しかねた作品に出くわしたという感だったわけだが、すぐ後ろに連結している翻訳者による解説で大方合点が行った。
 舞台は第二次大戦の大詰め、パリ解放直後のパリの著名なホテルの「ホテル・リッツ」である。ヘミングウェイは、当時、実際にパリ解放時に従軍記者としてパリにいたらしい。この作品に描かれた場面が実際にあったかは知らない。だが、20代をパリで過ごしたヘミングウェイにとって、従軍とパリ解放、凱旋門をくぐり、そしてもうその足で向かった「ホテル・リッツ」での一室での、時間の浪費以上の何ものでもない全てが尊いのだ。ただ、こういう感傷は、読者が勝手に状況から作り上げたものに過ぎない。本当の感動は、書いている人にのみ通じる種類のものだ。この短編は、いつまでも記憶にとどめておきたい風景として描きとめられた、破棄をためらい、死後発表の条件で生き残った一枚の絵ではなかろうか。

 さて、『中庭に面した部屋』は私小説であるという平凡な結論はともかく、そして、そこから得られるヘミングウェイという人物の研究は、翻訳した人のような詳しい方に任せておいて、生まれて初めて文学雑誌ものを買ったわけだが、誰一人わからない。『新潮』が格調高い雑誌という事は何となく察せられるのだが、趣味の雑誌なんてこんなものかと。といっても、作品が載っているわけだし、試しに読んで、覚える名前もあるだろう。しかし、紙面でツイートの印字を目にするとは思わなかった。

2018年9月5日水曜日

『古代ローマ旅行ガイド』と『バルトーク音楽論選』

 7月に買った本は『古代ローマ旅行ガイド』『バルトーク音楽論選』の二冊。ちくまさんは、電子書籍に積極的ではないようなので、紙の本を購入した。


 『古代ローマ旅行ガイド』は、ほとんど題名と表紙で買ったようなものだ。ローマと言っても、カエサルやらキケローやら偉人への興味が先に立つのが教養界の特徴で、どうもこの驚くべき国の様子については、なかなか触れることができなくて今日まで来た。喉の渇きに水、砂漠にオアシスと言うわけだ。『古代ローマ旅行ガイド』と、ちょっと俗受けを狙ったような感じもするタイトルだが、どうせこの手の本を書こうと思いつくのは、碩学の方ぐらいである。にわか仕立てでは一行も書けやしない。なぜなら、この手の本の中には、実在する(した)ローマ人の生活サイクルをもとに、読者への興味を引き立てる必要があるからだ。必要な作業は蘇生である。作文の上での蘇生。でなければ、誰もローマに行ってみたいなどと思ったりはしないだろう。生活環境は、遠隔地であればどうしても異なるもので、我が国においても、県ごとの生活スタイルで一つテレビ番組が出来上がっているくらいで、いわゆる風習の類は、どうしても人の目を引かずにはおれない。これの応用がバルザックの小説だ。つまり、旅行ガイドには、バルザック的手腕が必要なのである。
 碩学とともに、ユーモアも欠かない本書は、紀元前後ローマ旅行ガイドとしては優良の書と言えましょう。食べることのできない食べ物、見ることのできない史跡や出し物に思いを馳せましょう。
 挿絵多数、引用豊富。ラテン語例文集は、何の役にも立たないこと請け合いです。


 バルトークは、近現代作曲家。この名前を見ると、独特の渋い不協和音と荒々しいリズムを思い出すのであるが、民俗音楽の収集家としても有名である。

2018年8月12日日曜日

吉田秀和/『二十世紀の音楽』

吉田秀和の『二十世紀の音楽』が重版出来。これは名著だ。
 クラシック音楽の本と言えば下らないものが大半である。作曲家の下劣なゴシップネタ一覧と、ななめ読みの駄本が量産される中で、一般向けの教養書として、読むことのできる本を見つけるのは本当に難しい。特に二十世紀の音楽となると誰も書く事が出来ないのが現実である。二十世紀の音楽に起きた変革、特に、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン等が先鞭をつけたいわゆる「十二音技法」等の作曲方面での変革は、「崩壊」と言ってもよいほどのもので、彼らの音楽は未だ新鮮な響きとして、つまりは、難解な響きとして我々の耳に迫るが現状である。そんな中で、吉田秀和氏の『二十世紀の音楽』は、二十世紀の音楽が耳に奇怪なものとして響く読者に寄り添い、歴史的経緯と、構造を簡単に解説し、これら一定の擁護によって、再び読者を二十世紀の音楽に向かわせてくれるという点で、最良の本なのである。読んでためになるだけではない、趣味まで増えてしまう。音楽の趣味をさらに広げてみたいという人には格好の一冊と言えましょう。

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2018年8月1日水曜日

サン=テグジュペリ/『戦う操縦士』

 著書の体験に基づく私小説。フランス空軍の偵察機パイロット時代をえがく。戦況は圧倒的に不利であった。

 著者のサン=テグジュペリという人を私は、『星の王子さま』の作者と言うことで、漠然と繊細な傷つきやすい感性を持った作家だとばかり思っていたが、どうも違うようである。この人は、自分の肉体と精神を生命の炎のようなもので焼き尽くしてしまいたい、そういう風に考える人で、いわばロマン主義演劇の主人公のような、言い換えれば熱血漢とでも言えよう。

 彼が飛行機に乗るのは、空と言う死の世界で、過剰な情報による神経の摩耗を得られることを覚えたからで、彼が本を書くのは、自らが死ぬこと(燃え尽きること)を、なぜこうも求めるのか、その自問に対する彼なりの回答である。彼の書く事に目新しいものはない。彼がヒトラー批判を展開するのは、彼がたまたまフランス人であったからにすぎない。フランスが彼の育んだ大地だから、彼はフランスの肩を持つ。こういう単純な構造にもかかわらず、世のプロパガンダ批評家、半端な政治評論家は、民主主義の意義などといったものをこの本に見出したが、無論これは誤りだ。世の教養人はサン=テグジュペリのフランス官僚機構への批判を忘れる。同様に、彼の説くヒューマニズムから、排斥的ナショナリズム批判を見出すのもまた誤りである。たとえそれが一般論から批判の対象にするのが妥当であったとしても、彼は政治的宣伝を発明したいわけではないから誤りだ。むしろ、彼の義憤は、排斥的ナショナリズムと見られる可能性の方が高いだろう。

 サン=テグジュペリにしてみれば、答えであれば、幼少期の記憶から湧きあがってきたもので充分だったのであろう、例えば、牧師の説教で十分なのである。譲館から死にに行くようにとの命令とほとんど同義の出撃命令を受け、ドイツ軍偵察を敢行し、見事帰還する。彼の暗い色調と、機械的惰性と化した社会とフランス批判はここに見られる。それが、幼少期の叔父の記憶と交わる。しかし、空が彼を変える。正確には、地上より降り注ぐ弾幕の壮絶な光景が彼を一変させる。死地からの帰還後、宿営地を描く彼の筆致はおそろしく心理的だ。まるで目に入るすべての瞬間を噛みしめるかのような、生きるとはこの中で生かされると悟る。しかし、いくら優れた作家であるからと言って、どれほど目に入った人物を詳細かつ生き生きと描いて見せたところで、作者の充実した優しさと心に触れるする事は出来ない。せいぜい、命の大切さという死に体の題目が頭をよぎる程度だろう。

 それから展開される、恐ろしく単純化された、友愛と人間についての彼のキリスト教風宗教論は、誰の目にも入らなかったに違いない。桜花思想風の自己犠牲的郷土愛を誰の目も逃れたのは不自然と感じるほどだ。あまりに当たり前な事だからだろうか? 現代ではそうではあるまい。無論、みんな仲好しが一番などとは一行も書いていない(彼はノルウェーのためにドイツを打つのだから)。彼が見出したのは、誰かのために死ぬことができるという一事だ。 

 続くあれほどの努力を払って説いたヒューマニズムは、人間という石が築き上げる大聖堂は、読者にとってはただの言葉に過ぎないのだ。あるのはただ、サン=テグジュペリの告白だ。しかし、読者は書き手の真摯な態度に感化されて聞き入る。それがこの本の魅力の源泉である。いや、サン=テグジュペリの書くもの全ての美しさの基調を成すと言っても良いだろう。しかし、やはり彼の充実した優しさと心に触れる事は出来ないのだ……。それまで空虚な文字の羅列であったものが、生き物の温かみでもって胸に迫る経験は、自らの体験によってのみ可能である。これが教訓としてのサン=テグジュペリの本とでも言えようか。

 『戦う操縦士』とはサン=テグジュペリ自身のことである。死地こそが彼が彼を知ることのできる唯一の場所であった、それは彼自身がよくわかっていただろう、書くこととは、ただ説くことが目的であったとは筆者自身を知らなかったのかもしれない。恐ろしく個人的な重みを背負っている文章を、見る人は見るだろう。サン=テグジュペリの精神は、死を受け入れようとする、肉体の衝動を追う。恐ろしく明晰な筆致で。彼がいつもおのれ自身を知るのは、空の上であった。サン=テグジュペリの文体が、明晰と幻想が交錯するのは、いつも空の上なのであった。そうしてようやく地に足が付くとは、因果な迂路ではないか。

2018年2月12日月曜日

リチャード・スミッテン(藤本直 訳)/世紀の相場師ジェシー・リバモア



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大相場師の人生と仕事

 楽して儲けたいという気持ちで株に手を出し、大損こいて退場するのが多くの人間のたどる道なのだそうで、相場の勝者は驚くほど少ないらしい。ジェシー・リバモアという人物は、題名にもあるとおり、そんな相場で暴利を得たことで著名な相場師であり、最も有名なのが1929年の大恐慌の際に空売りで莫大な利益を上げたことなのだそうだ。リバモアの生涯は、株式をはじめ商品先物での成功とその研究、そして、私生活面での行き詰まりと自殺に要約される。立志伝中の人物は、どうしてこうも死に場所に不幸が漂うのだろうか。私生活面については、前情報なしで読んでいただいた方が面白いだろうから何も論評しない。それよりも、興味深かったのは、リバモアが自分の相場師としての仕事に対する情熱と探求の精神だった。

 リバモアは、自分の仕事と成功について、たゆまぬ研究と忍耐の結晶であり、失敗の原因は市場ではなく自分(の弱さ)にあると説く。彼の語り口は、まるで弁論術について説くキケローであり、異様に力強い自信にあふれた賢者のような物言いである。
 彼は四度破産している。こうした自身の経験から「なぜ株は楽して儲かると言うイメージが付きまとうのだろうか」と嘆いているほどである。少なくとも、彼は自分の成功の要因を運であるとは全然書いていないことは注意しても良いではないか。私も読後感の勢いで、こんなことを知った口でペラペラ書いてみたものだが、読む前はこんな真面目な本だとは思ってもみなかった。もっと軽いフワフワした雰囲気の読み物だと思っていたものだ。

 この本にはリバモアの売買手法や見解も載っていて、原因はともかく事実の観察から法則を抽出する科学的なものといえよう。「有料株式投資講座なんぞをやっている連中はそのやり方で投資して成功すればいいわけで」という常識的なものから、「底値を狙うやり方は皆が好んでするがダメである」「投資で値が高すぎるもしくは安すぎることはない」等、常識的な考え方と微妙なズレがあるものなど、いろいろと書いてあってどれも興味深い。また、リバモアの個々の株式の銘柄についての見解は、ちょうど「文は人なり」に通ずるもので、文士目からすると文章は人の姿をとるのに似て、「株は人なり(上手くないが)」というわけで、株式の値動きも、人の顔や性格を見るように見えるのだそうである。社会を見渡すと、人だけでなく、物や組織の顔や性格を把握する必要が多いものだ。株にも顔があるという見解には親近感を覚える人は多いのではなかろうか?
 この本は、奥の深い業も深い株の世界を覗くには良い入門書でありましょう。

2018年1月3日水曜日

夏目 漱石/『道草』

年末年始の休みはこれを読むことに費やした。費やしたと書いてしっくりしたので、時間を無駄にしたと感じているのかもしれない。やっぱり有意義だったかもしれない。

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人生とは、それは道草のような


 『道草』を書いた漱石は、すでに『心』を書き終えた身である。作家生涯最高の作を書き終えた漱石が見詰めたのが、悩める青年時、結婚も済み、教師として道が定まりかかった彼の前半生であった。残る問題は、彼の親族の話と、文学における永遠性についての問題であった、と言えば派手だが、それと同時に、持続する家庭の安定した運営もまた問題となりつつあった。これは『猫』の成功によって好転するものでもなかった。どれもこれもおさまりの悪い終わりとはじまりの連続である。

 このように並べてみると、おおよそ人生で遭遇する緩やかな辛さを延々と続き、むき出しのリアルに面接するのだが、妻の出産の場面の書き方などはあんまり露骨にすぎる。 自然と『アンナ・カレーニナ』の出産の場面を想い出して比べてみたが、その光景のあまりの違いに暗いものを感ぜざるをえなかった。あっちは昼で、こっちは早朝という話ではない。命の誕生の喜びと「何か見てはいけないもののように感じ」云々の差である。ただか細い鳴き声が響くのみ。

 ところで、島田(養父)の妻に子供ができていないという点を指摘した人はいるのかしらん。 これは再婚後も同様で、当時の事なので、健三への執拗なあたりはそこに端を発するのではないかと思う。ただ、ありのままにつらい。確か、島田も別の女で実の子を作っていたはずである。