2018年1月3日水曜日

夏目 漱石/『道草』

年末年始の休みはこれを読むことに費やした。費やしたと書いてしっくりしたので、時間を無駄にしたと感じているのかもしれない。やっぱり有意義だったかもしれない。

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人生とは、それは道草のような


 『道草』を書いた漱石は、すでに『心』を書き終えた身である。作家生涯最高の作を書き終えた漱石が見詰めたのが、悩める青年時、結婚も済み、教師として道が定まりかかった彼の前半生であった。残る問題は、彼の親族の話と、文学における永遠性についての問題であった、と言えば派手だが、それと同時に、持続する家庭の安定した運営もまた問題となりつつあった。これは『猫』の成功によって好転するものでもなかった。どれもこれもおさまりの悪い終わりとはじまりの連続である。

 このように並べてみると、おおよそ人生で遭遇する緩やかな辛さを延々と続き、むき出しのリアルに面接するのだが、妻の出産の場面の書き方などはあんまり露骨にすぎる。 自然と『アンナ・カレーニナ』の出産の場面を想い出して比べてみたが、その光景のあまりの違いに暗いものを感ぜざるをえなかった。あっちは昼で、こっちは早朝という話ではない。命の誕生の喜びと「何か見てはいけないもののように感じ」云々の差である。ただか細い鳴き声が響くのみ。

 ところで、島田(養父)の妻に子供ができていないという点を指摘した人はいるのかしらん。 これは再婚後も同様で、当時の事なので、健三への執拗なあたりはそこに端を発するのではないかと思う。ただ、ありのままにつらい。確か、島田も別の女で実の子を作っていたはずである。