2019年1月21日月曜日

葛飾北斎(日野原 健司 編集)/北斎 富嶽三十六景


 世界的に著名な北斎の『富嶽三十六景』及びその派生作品の画集で、作品ごとに二頁ほどの解説を付けたもの。カラー印刷で、手軽であり、持ち運びに便利だが、絵も見開き二頁のため、文庫本の制約で真ん中は隠れてしまっている。

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 もちろん巻末の解説は付いているが、北斎の人となりや生涯、仕事の概観については、カラー版 北斎に当たった方が良いだろう。この本は、江戸時代に花開いた版画産業の構造についての解説もあり、しかもわかりやすい(これはとても重要な事だ)。カラー版岩波新書シリーズでも優れた一冊である。

2019年1月15日火曜日

バーリン(河合秀和 訳)/ハリネズミと狐――『戦争と平和』の歴史哲学

この論文は、トルストイの『戦争と平和』に現れる歴史哲学を扱ったもので、登場人物の名前が散見され、同作品の読者でなければ退屈なものであるように思われる。読者であっても、トルストイの独特な歴史哲学、私が読んだところでは「すべて人間は歴史の流れに沿う以外にうまく生きることはできず、その流れの前ではナポレオンも凡人である」と言うものを読み飛ばした人は結構いると思う。論文化した最終章は特にそうだ。

 トルストイが『戦争と平和』を書き始めた当時、ナポレオンに関する歴史的記述は彼の天才性によるところが大きいという一種の神秘主義に支配されていた。これが気に食わないトルストイの展開した歴史議論は、それに対する痛烈な反論であった。しかし、いきつく結論は、要するに、「流れ」自体は不可知領域にあり、感じるまま、あるがままがいちばんという、あまりに迷信的な、あまりに受け入れ難い楽観主義であった。神秘的という点で、二つはあまり違いがない。ここから、大文学者トルストイと二流未満の歴史家トルストイという見方が現れる。

 この本でのバーリンの仕事は、ほとんどの人が真面目に受け取ることはなかったトルストイの歴史哲学の再考にある。

 ただ、バーリンの本当の目的は、新しい歴史哲学の発見(確認)であった。後半の解説に詳しい多元主義的な見方と呼ばれるものがそれである。ほとんど考えることをやめたに等しいトルストイの歴史哲学の中に、より正確な回答のようなものがあると考えていたとは思えない。トルストイは、「既存の歴史に対する見方を破壊するまでは完全に正しく、手法も冴えわたっているが、一方でトルストイ流の歴史哲学には彼自身の問題に深くかかわっている」という洞察もみられる。

 バーリンの中でのトルストイは、自分の考えにとっては曖昧な、しかし、回避する事の出来ない存在として取り上げられていることを、本文を読んで何となく感じられるところである。新たな思想のため、バーリンには、トルストイの洞察をバーリンが志向する歴史哲学の先見例として祭り上げることもできただろう。巷の三流文士がよくやるように。そうしなかったのは、彼の分析者としての性質によるのではないだろうか。

 非常に鋭くて想像力が大きく、また明敏な分析者はすべて、もはや壊すことができない核心に行きつくまで物を分解し砕いていく。『ハリネズミと狐』

 彼はここでトルストイの性質について語っているだけではない、自分の性質についても言っているのである。この手の直観によるほかに、人は人に近づくことはできない。バーリンもまた分析者であった、しかも明敏な。以下の結論は、論理以前に存在していたと私は推察する。

「トルストイの現実感覚は最後まであまりにも破壊的であった。彼の現実感覚は、自分の知性が世界を粉砕し、そしてその粉砕した断片を材料に彼がやっと構築した道徳的理想と両立する事が出来なかった」『ハリネズミと狐』

 バーリンが分析したのはトルストイの『戦争と平和』だが、彼は後半でトルストイの哲学と悲劇的な運命に別れを告げた。バーリンの分析の力が、哲学を切り離し、トルストイにしか背負うことのできなかった重みを眺め、別れを告げさせるのである。ここに至る恐ろしいまでの迂路と見事な論述捌き、紙背に宿る執念と情熱は読んだ人にしかわからない。バーリンにはもっと楽な道はあったはずだ。

 その一方で、『戦争と平和』以前にトルストイの性質として残ったもう一つの塊、冴えわたった破壊の手腕に着目するのである。バーリンの驚くほど明切な筆は、トルストイの歴史哲学の手法に食い込むとともに、彼の作品のすべてが背負う羽目になった私小説的性質の作品本文を透過して、メーストルと言う同志を探り当てる(これはもう鳥を刺す矢のような直感から始まる比較論である)。破壊的と言う一点において、二人を交差させ、トルストイと言う一人の悲劇的人物について、上で引いた結論にまで道を引く。