2019年3月19日火曜日

ベッカー(河上 徹太郎訳)/『西洋音楽史』

バッハ以前の作曲家から、シェーンベルク等の出現までを、社会の変遷と和声の時代の始まりと発展という観点からまとめた。ラジオ向け講義を本にしたもの。ただし、著者が歴史の流れをつかむのはバッハからだと思われた。

 ベッカーがこれを書いた当時は進歩と発展を進化論風に語るのが流行っていたらしく、それに対する反論をこの本でしてみたかったらしい。同時代向けの本の割にしっかりしている。

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社会、思想の変転と技術革新


 芸術は社会の変化に敏感である。宗教改革や革命が起こり封建社会から自由の時代へと移行する中で、人間は従うだけでなく、自ら考えるよう迫られるとともに、自らの内面に注目するようになる。芸術の変化とは要するに創作技術の変化でもある。音楽の和声の部分は、精神への影響と言う点では最も影響を与えやすい要素で、和声的な音楽が好まれ、発展が非常な勢いで進んだ。これが古典の時代からロマン派に至る一連の運動である。

 時代が下り、和声の発展は文学との融合(音楽は具体的何かを表現する事が出来るという考え:標題音楽)を果たすとともに、着想は作曲家個人の体験に依存し始める。一方で技術そのものは学術化が著しくなり、和声の中でもカデンツを利用した者が最も強い効果をもたらすということが経験則上で発見され、表現の中でも最も効果的な着想題材は「救い」であることがワーグナーの作品によって立証された。

 ざっと書いても何の事だか分らないだろう。安心してください、本文の記述はもっと細かい。国民楽派の登場や理論面では通奏低音から旋律に音楽の主導権が移る等、技術革新と、芸術家らの運動が描かれる。モーツァルトやベートーヴェン、シューベルト、ショパン等の歴史的位置づけも詳しい。

ロマン派の袋小路


 読後感として、他の分野の芸術史を思い出さずにはおれなかった。
 芸術史一般に言えることは、社会の運動と切り離すことができないという点で、絵画史、文学史の概観を見ても、中世から近代、現代に至るまでの道筋は、既にロマン派の登場で定まったまま、思想自体は現代にまで通じているように思われる。

 技術革新によって、芸術史はある程度の時代を区分し、芸術は多彩さを常に更新し続けているように思われるが、それは見かけだけで、かつて模範とすべき様式のもと創作し、その名人を芸術家と呼んでいた時代とは違い、革新された技術のもとで芸術家らが安定した環境を得たわけではない。むしろ孤立を深める原因であったとすら言えるのである。特に近代に入ってからその傾向は著しい。情報の大量浪費社会は、別にインターネットの登場に始まった現象ではない。印刷技術の発達と中産階級の登場により、芸術市場の発展と歴史的知識の流通が著しくなったとともに、孤立を深めていく芸術家はより一層増えるのである。芸術上の技術革新は、行き場を失った個性が危うい土台の作業場で作り上げた秩序であり、あだ花であり、明瞭となった聴衆と作者の国境であると言うわけだ。自分の頭で考えるとは、強固な社会や秩序を前提としなければ、どんな狂気に人を導くか知れない。せいぜい欲望を発散する事が出来ないのは、社会のせいであるという結論を得るだろうが、得たところで何になろう。

 我々は、原則として自分の頭で考えるという時代にいる。その原則には人類の共通の利益は、多様性とともに留保されなければならないという但し書きを添えられている。

 話がそれてしまった。最近の音楽が、映画等の実用音楽と売り上げ至上主義と言う明確な目的をもって作り続けられる以上、秩序だった安定とある程度の質は確保され続けるだろう。ジョン・ウィリアムズが、最近クラシック扱いされ始めたのは周知の通りだ。一方の現代芸術とやらの孤立は、やはりロマン派の袋小路を象徴する負の遺産のように見えはしないだろうか。見る人や聴く人を巻き込む力もない。勝手にやるのはよろしいが、私にはああいうものに公費を投入する意味がわからない。