2017年1月24日火曜日

(未定)全集


全集を読む


1 つねに第一流作品のみを読め。
2 一流作品は例外なく難解なものと知れ。
3 一流作品の影響を恐れるな。
4 もしある名作家を選んだら彼の全集を読め。
5 小説を小説だと思って読むな。
小林秀雄『作家志願者への助言』

 特に作家志望というわけではないのだが、文庫本や、最近ではツイッターで流れてくる短い文章を見て「こいつは偉い奴かもしれない」と思った人の全集をできるだけ集めて読むようにしている。それもこれも、小林秀雄の上の助言を真に受けてのこと行動である。

 これは私の経験からいうのだが、こいつは偉いと思った人間の言うことは、「全集を読み給え」と言われたら全集を読むように実行してみるべきである。実行して初めて分かる失敗というものもある、これは常識だ。思うに、実行しないということは、少なくとも話し手のことを偉い奴だとは思っていないのである。勘違いしないでほしい、私は社交場の謙遜の作法を言っているのではなくて、他人の価値判断についての自分の本心を自分で知るための方法を言っているのである。謙遜はもとより口先だけでするものだ。

 読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早いしかも確実な方法なのである。
小林秀雄『読書について』

 著述家の全仕事を自室に持ってくる楽しみは、案外バカにできるものではない。この手の収集癖を第一に紹介し、紹介するにとどめておこう。続いて、第二の愉しみ、第二の読む方の楽しみはどんなものだろうか。

 大作家と呼ばれている人たちは、ほとんど五十年も昔には亡くなっており、無論現代に触れているわけではないので、作家が流行りの事件や人物に踏み込んだ内容の作品を残している場合は注釈を必要とする。かつて世界的名声を誇った文筆家、音楽家、画家、昔の文章をあたると、たくさんの墓碑に出くわすものである。これは、現代において大問題とされている多くの事件、人物は、無名の事件や人々と同様の命しか持たないことを暗に示している――。

 批評家は時評も多くするのが特徴であるが、小林秀雄の初期評論集などは、現代は知らない当時の現代についての話題を語る文章の典型と言えよう。それでいて、彼の全集が第一巻から現代の読み物として通じるのは、この男が話題にした多くの考えは、いつの時代においても問題であることを論じていたからであろう。大作家の著作群を読む楽しみや興味の源泉は、一つには、大体このところから湧いているように思われる。

 二つ目を挙げるならば、私などは、ご覧の通り書くものであるから、一種の例文名文集として使っている側面を指摘しておく。大作家らも長いことうまく書こうとしていると、名人になっていくもののようで、ずいぶんと世話になっております。

 しかしながら、一方で、ここに書いてあるものはうまく書こうとして、正確さを欠いた名文が出来上がったのではないか? という疑念もある。これは、画家が描く風景画は、ある実在の街を題材にしているのは間違いないが、美しい画面を作るために建物が移動しているのとまったく同じ事情による。戦後、小林秀雄は、「自分の機嫌をと」りながら文章を書いていたらしいが、吉田秀和が、小林秀雄の鉄斎についてのエッセイについて、こんなもの「美文にすぎない」と言っているのは理由のないことではない。

 詩人のマラルメは、「詩はイメージで書くのではない、言葉で書くのだ」という意味のこと言っていたらしい。この際マラルメが言っていようが誰であろうがよいのであるが、これは一般に考えられている言葉の用法ではないことはわかるだろう。ひとは何かを伝えたくて言葉を使うのではないのか。

 作文の名人ともなると、まずい文章は真実すらも捻じ曲げると考えるものだ。ヴァレリーなどは過激で、詩の中で歌われた思想は、詩の厳格な韻律の法則と言葉がもともと持っている音楽性の如何によって出来上がったもの以外にない、それだけではない、言葉の韻律がこの世に新たな思想をもたらしたとまでと言っている。韻文に限らず、散文においても、論理以外の力を借りて読み手を説得するものであり、その一環として例えば韻文流の音楽性を取り入れているものもあるため、ときに全くの正論と思った一文の感動は、内容思想意義よりも言葉が作るメロディーに感心したに過ぎない場合もあるものなのである。ここから、ショーペンハウアーが、文章をしたためるにあたって、重要なのは、正確な文法の使用と比喩の重要性についてであったことも何となく察せられる。彼は、非常にこだわりを持った文章家である。それは『読書について』の一文を読めばわかる。それでいて、あの大の音楽愛好家が、言葉の音楽性について全く鈍感であったなどと言うことは考えられない。彼が文章をひねるのには、音楽性という作文芸術の感動を自著にもたらす目的よりも高次の目的があったためだ、それはおそらく真理をとくためなのである。