2019年5月19日日曜日

ドストエフスキー(工藤精一郎 訳)/『未成年』


 ドストエフスキーの『未成年』を読んだ。 
 未成年の主人公アルカージイが、身も心も未成年そのままで世間に出て、海千山千の世間に誑かされるという笑えるような悲しいような話だが、その話を書くのはアルカージイ本人である。主人公自身が世間に良いように弄ばれている事を最も自覚しているという自虐的趣向は、この作家お得意の書き方と言っても良いのではないだろうか。


わたしは自分を抑えきれなくなって、人生の舞台にのりだした当時のこの記録を書くことにした。しかし、こんなことはしないですむことなのである。ただ一つはっきり言えるのは、たとい百歳まで生き延びることがあっても、もうこれきり二度と自伝を書くようなことはあるまいということである。実際、はた目にみっともないほど自分に惚れこんでいなければ、恥ずかしくて自分のことなど書けるものではない。ただ一つ自分を許せるとすれば、みんなが書くような理由から、つまり読者から賞賛を得たいために、書くのではないということである。もしわたしが急に、去年から私の身辺に起ったことを逐一書き記そうと思いたったとしたら、それは私の内的要求の結果なのである。それほどわたしはそれらのできごとにはげしく胸をゆすぶられたのである。わたしはつとめていっさいのよけいなもの、特に文学的な潤色を避けて、事件だけを記述しようと思う。(ドストエフスキー『未成年』)



 主人公である彼は、出生からして複雑である。戸籍の上では正当な結婚上生まれたことになっている私生児と、勢いとつじつま合わせの重なった風刺のような状況である。これを足掛かりに、書類上の家族の団らん風景だとか、遺産がどうとか、堕落した貴族の恋愛模様だとか、まぁ、当時常態化していたであろう椿事が次から次へとでてきて巻き込まれる。金銭、性欲、名誉、無責任、作家の筆から流れ出る精神の罪はとどまることを知らない。ペテルブルクは何かがおかしいと、それなら自分もおかしくなってやろうとするが、そこはペテルブルクの方が一枚上手なので、アルカージイの悪事はまるで歯が立たない。ペテルブルクは何かがおかしい、読者はアルカージイとともに苦笑い。



こんな調子で長編が出来上がっていて、現代(作者存命時のペテルブルク)の混沌とした世の中を、世の理想と若い野心(つまりやわらかい心)のみで出来上がったような青年に歩かせるとどうなるか、と言う実験を地で行くのである。きっとこの青年は、自伝を書き始めるだろう、「わたしが急に、去年から私の身辺に起ったことを逐一書き記そうと思いたったとしたら、それは私の内的要求の結果なのである。それほどわたしはそれらのできごとにはげしく胸をゆすぶられたのである。」と言う理由でだから、作品中多少の誤解はあって当然なのだ。主人公は真の愛情だって見逃すことだってあったかもしれない。しかし、作家の義憤は喜劇に託されたという意義に変わりはない。ここで、ドストエフスキーがこの作品を前後して『作家の日記』という社会時評を連載していたことを書いておこう。この辺の事情は、『ドストエフスキイの生活』に詳しい。

 『未成年』はペテルブルク風刺画で、現代日本からすれば臨場感に欠ける。このためにドストエフスキーの長編作品の中で最も影の薄い存在なってしまっているのだろうが、作家のダークネスユーモアが前面に出た作品とみれば、楽しめる部分は多いように思われる。