2019年8月19日月曜日

フーコー(阿部 崇 訳)、他/『マネの絵画』他

哲学者フーコーが、画家のマネについて語った講演を文書化したものと、フーコー研究者あるいは哲学者によるフーコー論が8本組み合わされた本。

 その他のフーコー論は、フーコーのことをよく知っている人に向けに書かれたものだろう。氏の職業が哲学者である以外、何も知らない何を言っているのかわからない部分が多々あった。「チェニジア時代のフーコー」と言われても何のことやらわかりません。

マネが実用化した新たな絵画規則


フーコーの講演は、マネの当時における革新性を解説したもの。分かりやすい。前知識なしで読書に支障ない。ボードレールのドラクロワ論が、何が描かれているかよりも、どう描かれているかという点に的を絞って書かれていたが、それと同様の趣向である。マネの仕事が、ただ革新的な面をアピールするばかりではなかったにしろ、彼が意識的に革新的な「画面の使い方」を作品に採用したのは紛れもない事実であると、解説はこの「画面の使い方」に絞ってされる。論点は以下の通り。

・キャンバスという空間
 画面の幾何学図形的構成と奥行きの使い方について。
・照明
 光源の位置について。
 有名な『オランピア』に描かれた女性を照らす光は、鑑賞者の位置に光源があるため、あたかも鑑賞者がこの女性を照らし暴いている関係に立つという。
・鑑賞者の位置
 『フォリー・ベルジュールのバー』の鏡の中について。

 フーコーの語り口は、ほとんど美術評論家のもので、マネの革新性だけでなく、それまでの西洋で採用されてきた絵画規則まで勉強になってしまう。普通こういうたぐいの議論には、誰に影響を受けて、どう後世への影響を与えたかを長々と喋るのが一般的だが、フーコーはほのめかす程度で、議題以外のことに余計な事をほとんど考えさせない工夫を施すところは、解説者として上質な部類に属するとさえ思える。

 巻末の本の広告をみると、フ-コーは狂気とか監禁についても書いているようだ。まったく想像が出来ない。狂気、監禁、それに性もそうだろうが、理性の欠けた行為とされるものを理性で捉えること、これは理性による本能の征服と言えようが、古来より文章の書き手が苦しんできた絶望的な戦いも、みんなマネ論のように明快な調子で書かれているのだろうか。

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