2019年7月19日金曜日

夏目漱石/『二百十日』

夏目漱石の『二百十日』は、青年期の男二人が、九州を旅した話。
 漱石は、浜虚子宛書簡のなかで、この青年二人(圭さんと碌さん)の現代での必要性について語っている。

圭さんは呑気にして頑固なるもの。碌さんは陽気にして、どうでも構はないもの。面倒になると降参して仕舞ふので、其降参に愛嬌があるのです。圭さんは鷹揚でしかも固くとつて自説を変じないところが面白い余裕のある逼らない慷慨家です。あんな人間を描くともつと窮屈なものが出来る。又碌さんのようなものをかくともつと軽薄な才子が出来る。所が二百十日にはわざと其弊を脱してしかも活動する人間のように出来てるから愉快なのである。(中略)僕思ふに圭さんは現代に必要な人間である。今の青年は皆計算を見習ふがよろしい。然らずんば碌さん程悟がよろしい。
(漱石全集第三巻508頁 ※高浜虚子宛書簡の孫引き)

 テーマは『坊ちゃん』の主題の変奏と言ってもいいだろう。おそらく社会風刺を目指した。思想だの爵位など資産だのを防寒具のように着こんで人間から進化したみたいに涼しい顔したり、イキリ倒したりしている、そんな連中の巣食う社会を蹴っ飛ばしてスッとするような人間を欲した。しかし、出来上がってしまったのが、とてもイギリス帰りの文学者の作品とは思えない江戸っ子風味で、落語にもならなそうな珍談になっているのが面白い。

 『二百十日』は、青年期の男二人が、九州を旅した話。二人で温泉に入るのはいいが(すでに碌さんは圭さんと共に街から九州に赴いているのだが)、宿で一泊した後、噴火活動中の阿蘇山に上るという冗談みたいな展開を見せるのである。
 宿で下女を交えての一幕。

「人格にかゝはるかね。人格にかゝはるのは我慢するが、命にかゝはつちや降参だ」
「まだあんな事を云つてゐる。――ぢや姉さんに聞いて見るがいゝ。ねえ姉さん。あの位火が出たつて、御山へは登れるんだらう」
「ねえい」(引用者注:「はい」の意)
「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔を覗き込む。
「ねえい。女でも登りますたい」
「女でも登つちや、男はぜひ登る訳かな。飛んだ事になつたもんだ」
「兎も角も、あしたは六時に起きて……」
「もう分つたよ」
 言ひ棄てゝ、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去つたあとに、圭さんは、黙然と、眉を軒げて、奈落から半空に向かつて、真直ぐに立つ日の柱を見つめてゐた。
(漱石全集第三巻214頁)

 碌さん圭さんに丸め込まれる。
 こんな調子の二人のやり取りが、究極のところ、どこまで二人を連れて行くかと言うことを描いたらこうなったと、作者は言うだろうが、これでは向こう見ずな馬鹿の珍道中である。たしかに、こういう人間が日本にはいないことは確かだが、これを東京のど真ん中においたら大変な事になるだろう(だから、九州の温泉地から話を始めたのかもしれない)。旧州域の汽車に乗る段でもひと悶着あったに違いない。
 上で引用したように、山の状況はどう考えても危ないのだが、圭さんは慷慨精神を忘れずめげず、頂上を目指す。碌さんは断れない。この奇妙な味わいが、この作品の特徴と言っておこう。山登りの風景はそれなりに迫力があり、軽い動機で赴いて自然の脅威にさらされ、割と危ない状況になる。

「痛むんだらう」
「痛む事は痛むさ」
「だから、兎も角も立ち給へ。そのうち僕がこゝを出る工夫を考へて置くから」
「考へたら呼ぶんだぜ。僕も考へるから」
「よし」
 会話はしばらく途切れる。草の中に立つて碌さんが覚束なく四方を見渡すと、向ふの草山へぶつかつた黒雲が、峰の半原で、どつと崩れて海のように濁たたものが頭を去る五六尺の所迄押し寄せてくる。時計はもう五時に近い。山のなかばは只でさへ薄暗くなる時分だ。ひゅうひゆうと絶間なく吹き卸ろす風は、吹く度に、黒い夜を遠い国から持つてくる。刻々と逼る暮色のなかに、嵐は卍に吹きすさむ。噴火孔から吹き出す幾万斛の烟は卍のなかに万遍なく巻き込まれて、嵐の世界を尽くして、どす黒く漲り渡る。
(漱石全集第三巻240-241頁)

 もちろん、二人は死にはしない。

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