2020年7月19日日曜日

図録/よみがえる正倉院宝物―再現模造にみる天平の技―


 「よみがえる正倉院宝物―再現模造にみる天平の技―」展覧会開催案内を見た時は、偽物だから客が少ないだろうと踏んでいたが、やめた。図録だけでもと手にとったわけである。

珍品が眠る巨大な「倉」


 正倉院宝物は、聖武天皇及びその皇后の愛用品などをさす。正倉院の「倉」自体は、東大寺の北西側にある。修学旅行の際に見逃したのか、見たのを記憶していないのか、2019年にはじめてその建物を見たが、想像よりも巨大な建造物で、はじめて大仏を見た時を思い出した。そして、この中におしこまれている珍品の数々を想像した。

天皇陛下の「いいね」


 我が国の珍品至宝の数々は、古来より、或る種の審美眼の系譜の中で重要な位置を占める作品に対して価値を付与してきた。あたりまえの話なのだが、その流れとは別の作品については、重要ではないため残らない。これも当たり前である。しかし、正倉院の宝物となると、国際水準追求に伴う技術的水準の高さ、天皇の個人的な趣味、皇統的由緒に価値が置かれるため、だいぶ趣が異なり、「こんなものが・・・・」と思われるものが含まれている一方で、戦国時代をはるかに上回る異国情緒、珍品の名にふさわしい世俗性など、ここでしか残らない傑作もあるわけである。東大寺の中にある美術史の飛び地である。

再現模造が払う埃


 一方で、一番古いもので1400年前のもので、何を見ても古く、時代が付いて回り、往時宮廷をハッとさせた最新式の工芸品として見るのはどうも難しい。再現模造であれば、私の目にも面白いと感じるに違いない、まぁ、多少どうにかなるだろうと思ったわけである。いくつかは、本当に驚いたものである。「七条織成樹皮色袈裟」は、色彩の不規則な配置が美しい織物。展示用に広げてあるが、これで十分美しいので、着るものではなく、こういう絵画作品織物作品のようである。色彩感は官能的で、製作時代を全く忘れさせる力がある。ほとんどパウル・クレーの作品のようだ。


「赤漆文カン木厨子」は、Wikipedeiaでは、白色写真が載っていて、天武天皇愛用品という強烈な古さで記憶していたもの。要するに棚・物入れだが、原色写真で見ると、黒檀の赤の力強さを、年輪に刻まれる黒い天然の模様は時代と異様な風格をもたらし、派手さはほとんどないものの、冊子の中に並ぶ他の入れ物のなかでも一際存在感のある入れものであった。



 現代の工業技術を持っても、宝物の工場での量産は不可能のようで、模造といえども、忠実な再現とあれば、人間国宝など伝統工芸を総動員しての国家的プロジェクトだったようです。もちろん、一つ買って帰るということはできないようです。図録には、おなじみの「螺鈿紫檀五絃琵琶」もあります。

2020年2月19日水曜日

フローベール/『ブヴァールとペキュシェ』


ブヴァールとペキュシェは、私たちだ。


 退屈と言えば、退屈の一言で片づいてしまう作品である。筆耕(清書係みたいな仕事だと思う)の中年男性二人ブヴァールとペキュシェが、幸運にも手にした遺産を元手に、田舎に引っ込んで様々な趣味にいっちょ噛みしては中断し、最終的にはすべてを失い、仕事に戻る、そういう話である。物的人的変動がない作品のことを「中身がない」と言うのが現代の流行りだが、その尺度から測れば中身がない。しかし、周知のとおり、『ブヴァールとペキュシェ』は、フローベールの最後の作品だが、それに至るまで、ずっと「中身がない」作品を書き続けていたわけではないのである。不倫を描いた『ポヴァリー夫人』から始まった彼の仕事は、パリの若者が経験しうる一切のこと(『感情教育』)、地中海アフリカ側の神話的歴史小説(『サランボー』)、世界中の神話宗教の傍若無人な戯曲「折伏合戦」(『聖アントワーヌの誘惑』)をも対象とするところまで行った。このように軽く見渡しただけでも広いと言わざるを得ない。そして最後は、最も詩的な世界から遠い、中年独身男性のリタイア物語。見事だが、退屈で、決して他人事とは言えない醜悪なディレッタンティズム、マニア・オタク連中のなれのはて、確かに文学に現れた新しい登場人物である。言葉はこんな連中も描く事が出来る、と。

 ポール・ヴァレリーは、フローベールについて書いた文章の中で、その文体についての賛辞を惜しまず、そのもっとも高い豪奢に達した『聖アントワーヌの誘惑』の誘惑については、絶賛しているが、それ以外については辛辣である。作者の書簡まで引用して難じているが、描かれる対象の凡庸退屈は作者とて同じく実感し、心境も同じくしていたことが、その引用された書簡には語られている。「どうしてこんな退屈なバカどもを描かなければならないのか」と、書く苦痛を経て、どうやら完成して、読者に読む苦痛を与えるという、一見して時間の無駄としか言いようのない営みがつまびらかにされている。『感情教育』の読書中はたいして響かなかったヴァレリーの感想文は、『ブヴァールとペキュシェ』を読んでいる時から、読み終わるまでは、ずっと私の頭の中に居座って動こうとしなかった。当時の現代を取り扱って、余すところのない知識と社会と都会田舎の人間模様を描く。ただし、美しい瞬間はほとんどない。

 知人にヴァルター・ベンヤミンを読み始めたという人があって、「たしか自分が勧めたんだっけ」と、一方で私は多く読んでいるわけではない。随分無責任な周知活動を反省し、手に取った文庫版コレクションの中に、バルザックに関する一文が載っていた。ベンヤミンが言わんとするところは、私が読んだところでは、要するに、形而上学的哲学的問題の具体的な一般的な人生の中での解決である。哲学とは言葉遊びではない。かつてプラトンが、生活から抽出した抽象的な概念を、再び具体的な生活の中へと戻す作業である。バルザックが『人間喜劇』で描くところが、現代である必要は、一つは読者獲得のためであっただろうが、現代の諸相を描き分けるにあたって、どうしても精神的世界の描き分けが必要だった。文学における人間の差は精神の差がほとんどであるから。そこで天才バルザックが捉えたのが、生活人の精神世界の、各々個人個人が内蔵する包括的ルール、つまり哲学であり、その再発見について、ベンヤミンは、次のように書いている。

普遍性[広範性、譜包括性]のある部分は、フランス精神が形而上学的な問題においていわば一種の分析的な生活測量(Geometrie[幾何学])」のやり方に従って振舞う、ということに基づいている。すなわちフランス的精神は、ある方法に依拠したもろもろの物[事]の原理的な解決可能性という圏域を知っており、その方法とは、個々の所与の事柄の個人的な(いわば直観的な)深みをめざすのではなく、所与の事柄を、それらの解決可能性がすでに確定している方法的なやり方で解決するものである。(ヴァルター・ベンヤミン著 浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』二十六頁

 あわせて、その具体的な姿は、「非-深み」として立ち現れるとし、加えてそれらは、「浅薄さあるいは皮相さを謂うものではない」と念を押している。バルザックと同様に、このようなフランス精神的手法でフローベ―ルが哲学を披露したという考えは、少なくとも私にとっては納得がいく説明だった。すなわち、フローベールが緻密で退屈な『ブヴァールとペキュシェ』で描いた哲学は、この世のあらゆる楽しみは、それを渇望する欲求以上のものではないという諦念から来るペシミズムである。それはちょうど生活人の溜息のようなものだ、さ、各々仕事に戻りたまえ、と。

 この作品、熱心なファンがいるらしく、2019年には新訳が出た。私は全集で読んだ。