2019年9月19日木曜日

メリメ(工藤庸子訳)/『タマンゴ』・『カルメン』

メリメと言えば『カルメン』。同名のオペラは世界的に著名で、劇中に登場するいくつかの楽曲が通俗化しているほどには、我々の生活に密着している。その新訳を目的に手にとって、『タマンゴ』など存在を気にせずにいたのだが、読後感は、『タマンゴ』の方がはるかに強かった。

奴隷貿易の現場と「タマンゴ」のありふれた死


 『タマンゴ』は、奴隷貿易の現場を描いた短編で、私掠船業をクビにされたフランス人船長とアフリカで人を調達している現地人との交渉からはじまり、船の上で奴隷として乗船していた人々が反乱をおこして、幽霊船と化すまでを描く。ほぼ全編にわたって、バカ、短気、堕落が続くと言ってもいい。とんでもない内容だが、メリメが皮肉交じりに巧く書くので、何とか読み進めることができるものの、読み味だけ言えば三面記事の猟奇物の類である。

 題の「タマンゴ」は、アフリカ現地で同胞を調達してフランス人に売る仕事をしているアフリカ系の大男。酒に酔いながら取引をする中で、うっかり妻を売り渡してしまう。失態に気づいた時には既に妻を乗せた船は岸を離れていた。あきらめの悪い彼は激怒し、小舟をこぎ帆船を追いかけて、ついに船に乗り込むことに成功するが捕縛される。もちろん、後々彼が反乱を指揮するのである。カリスマ性のない大悪党は、なかなかいないものだ。

 これだけ書いても、筋と登場人物の終わり具合がお分かりいただけただろう。
 しかし、疑問が浮かぶのは、これを書いたメリメは、俗物ではないのである。この作品を、読者を面白がらせるために書いたと結論すればたやすいのだが、Youtuber並のいたずら半分で公開するような人物では決してないのである。しかし、娯楽としては悪趣味の範囲に入るこの小説はなぜ書かれたのか? この問題の回答は、当時の世の中を参照するとわかりやすい。メリメは、当時官僚として活躍しており、外交官的な仕事もあった。界隈では奴隷貿易の禁止を盛り込んだウィーン条約締結の機運が高まる中、世論を味方につけるべく様々な手が講じられた。実際に奴隷に使用された拘束具を公開展示するなど、詳しくはこの本の解説にあるが、要するに『タマンゴ』も世論を取り込むために書かれたものと考えられている。だが、ありがちな被害者視点の勧善懲悪者に仕立てても良いわけで、その手を取らず、猟奇小説にしたてた点に意図に、メリメ自身の問題提起が強く反映されたと考えても良いわけである。メリメは、誰が悪いかというのではなくて、制度自体が存在するために、関係する全員が悪党となってしまったと考える。

 はっきりいって、この小説には人間の美しい精神はほとんどない。登場人物は皆、全力で悪徳を働いていると言ってもいい。この点メリメのバランス感覚は抜群で徹底しており、俗物や電波見世物屋とは一線を画す確固たる倫理観を証す。視点は第三者的な傍観者であることを最後まで貫く。なるほど、これをとらえて、「人間の本性の暴露」という自然主義的な傾向を見てとるのは、まだ早計である(メリメを自然主義の作家ととらえるのは定見である)。もし、暴露小説であるならば、発見された幽霊船と「彼」タマンゴの後日談にあたる次の一行は不要である。

彼には自由が与えられた。つまり、お上に雇われて働く事になり、しかも日に六スーと食糧がもらえたのである。彼はなかなかの偉丈夫だった。第七十五連隊の連隊長が彼を見初めて採用し、自分の軍楽隊で鼓手に仕立てた。彼は片言の英語を身につけたが、あまりしゃべらなかった。その一方でラム酒や地酒のタフィアをしこたま飲んでいた。――彼は肺炎を起こして病院で死んだ。
[株式会社光文社発行 メリメ著 工藤庸子訳 『カルメン/タマンゴ』四十九頁]

 この一行の直前に、極悪人を縛り首にして結末とする方法をわざわざ避けていることも添えて書いておこう。タマンゴの変化は制度の変化に準じている。尋常な社会には、尋常な精神が育まれると言いたいメリメの意図は、『タマンゴ』と題されたこの小説の主人公の二面性によって表現されている。

堂々たる悪党だった「ドン・ホセ」


 『カルメン』の筋は、オペラの方が有名だろう。連隊所属の「ドン・ホセ」は、故郷からの母親の手紙を読んで感涙を流す無垢な青年だったが、カルメンの魔性の魅力と計略に巻き込まれて盗賊に加わってしまう。しかし、カルメンはそのころすでに闘牛士との別の恋愛を始めており、嫉妬に駆られたドン・ホセは、闘牛場でカルメンを刺す。オペラの中では比較的すっきりとした分かりやすい筋をもち、恋愛に狂った男が惚れた女は、エキゾチックな魔性の女という点が、観客の合点がいくところ(?)であり、そして彼女の淫靡な空気を描く音楽が非常に優れているため、今日までオペラ界のスタンダードナンバーの地位を保ち続けているのだろうかと思われる。

 オペラ版と小説版の際は、構成、目的、人物と少なくないのだが、ここでは、人物の差異について書いておく。カルメンの人物像については、双方とも大差がない。小説版の方がバカ騒ぎの激しいくらいである。情人によれば、「サルだってあんな騒ぎ方はしない」のだそうだ。

 私は小説の表題を飾るような強い個性を持つ女を移植ものの作品でほぼ忠実に描きあげられたオペラ版の功績は、非常に大きいように思われる。たばこ工場から出てくる頽廃を帯びた女工の合唱と直後に哄笑とともに現れるカルメン、淫靡なハバネラの独唱が続くこの一連の描写は、期せずして出来上がったものらしいが、見事というほかない。

 カルメンのキャラクターに差異が少なかった一方で、ドン・ホセは別人のようであった。オペラ版では、故郷から届けられた母親の手紙を読んで、「おふくろが目に浮かぶなぁ……!」などと歌っているが、小説版では、二度の決闘騒ぎを起こして故郷を追われたところから、ドン・ホセのキャリアが始まるのである。順調な軍隊生活を送る点と、たばこ工場から不意に姿を現したカルメンに心を奪われる点や、最後まで恋愛の奴隷だった点は共通だが、小説版の豪傑ぶりは際立っており、オペラ版にはいないカルメンの夫(密輸業のボス)の脱獄に加担した後に殺害し、代わりにボスに就任、界隈では知らぬものがないまでになっている。腕もたてば、人望もあったのだ。オペラ版では第二幕に至っても、ハイビスカスの残り香(逃走時にカルメンに投げつけられたもの)を主題にした内向的な歌を歌っている。盗賊になったといっても、ながされながされ、生きていくために悪事を働くコソ泥である。最後にカルメンを刺すにしても、窮鼠猫を噛む以上の効果はあるまい。小説版は違う。予感はすでに、ホセがガルシアを殺した時から、二人の間にはあった。話の流れが決定的に変わるのは、カルメンの闘牛士との不倫だが、小説版ではセリフすらないこの闘牛士は、競技中に瀕死の傷を負ってしまう。負傷を見届けた直後の二人の会見で、不倫を難詰、傷つけあいつつ、それでも新しい生活を始めようと男は言う。――しかし、口にはしないが、ドン・ホセは、カルメンを殺してしまうことを、カルメンは自分が死ぬことを悟っている。絶対に折り合えない二人を結びつける恋愛を終わらせるには、どちらかが滅びなければならない。人間は、こう言う風にしか他人を理解する事が出来ないものなのだろうか。予感だけが、与件としてはっきりと意識される。つらい時間である。ホセは実りもしないアメリカでの新生活を夢見て、カルメンは占いのせいにして、ずっと気をそらしていた。先に耐えかねたのは女であった。

 カルメンはふっとうすら笑いをうかべて言いました。
「まずはあたし、それからあんたの番だよ。よっくわかってるのさ、いずれそうなるってことが」
[株式会社光文社発行 メリメ著 工藤庸子訳 『カルメン/タマンゴ』一六六頁]

 最後に、最終章に学問的考察を乗せたメリメの意図について。この考察は、小説の筋とは完全に切り離された内容で、トルストイの『戦争と平和』の最後百ページほどにわたる歴史哲学と同様に余計なページとして、批判にさらされてきた部分らしい。上では全く触れなかったが、小説内部は、スオ絵院の社会生活、バスク地方やボヘミアン特有の方言や成句に満ちており、異国情緒以上に強く、その土地で起きた事件という感を抱かせるものである。調査考察の上に成り立っていることは言うまでもない。私は、メリメとしては、『タマンゴ』でやったことをここでもやったのではないかと考えている。バスク的ボヘミアン的事件は、その土壌が育んだ悲劇であり、その中心人物こそ、カルメンという女であったのだと。土壌は実在しているのだと。

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