2021年12月17日金曜日

エピクトテス /『人生談義』


  エピクトテスがローマの哲学者というだけで手に取った本。全二巻。広告の帯に『自省録』のきっかけとなったという触れ込みや「体を縛っても精神は縛ることはできない」みたいな感じの文句にひかれたのかもしれない。


 『自省録』、特に好きでもない本。ひたすら倹約と自己研さんに努める王のメモ書きからは、高い道徳性と、道徳そのものの完成度の高さを感じられるものの、実践に欠け、怠け癖のある私とは相性が良くなかった。どこかで見かけたこの本への批判、これは王専用の倫理学、被支配者にとってみれば働かすことを禁じられた自由意志を、消費そのものが不可能な者達を倹約の掟で縛るものなのであって、つまるところ、あってもなくても一緒なのだ、という一文を検証もなく暗記している。不意に現れた復讐の機会が果たされたという爽やかな気分が、記憶を持続させているのかもしれない。


 エピクトテスについて回る出自の話、「奴隷出身の哲学者」という触れ込みはあまり信用ならないものであるように思われた。今まで奴隷が何人存在したかは分からないが、本当の奴隷でもそうでなくても人の言葉はまず後世に残らないから。上で確認したように、頭のいい奴隷、考える奴隷というのは、面倒な奴隷と相場は決まっているので、エピクトテスは支配層からは常に監視を受けていたのではないかと思われる。その監視の中で、エピクトテスは文学の域に高められた弁舌でもってストア派の哲学を歌い上げた。


 エピクトテスの講義の記録たるこの本での彼は実に雄弁で、節制を解き、相手の胸に手を当てさせる手腕の見事さはキケロー以下のローマ弁論術仕込みの賢者のような物言いは見もの。贅沢は良いことだろうか、胸に聴いて見たまえ、他人の妻と寝てもいい事だろうか、自分の胸に聴いて見たまえ。手柄を一人占めしてもいいものだろうか、自分の胸に手を当てて聴いて見たまえ。ところが、これは哲学一般の話でもあるのだが、ニーチェが言うところの問題提起、倫理学そのものへの問いがここでも欠けている。倫理学の体系に触れようとするときの議論の誘導や、善悪の彼岸についての議論は、ゼウスを中心とした神々の世界の掟にたどり着くよう道筋を立てている。おそらく、当時の常識的なものだ。支配層からの監視がそうさせたのか、最初からこうだったのかは知らない。いずれにせよ、エピクトテスの言う自由は、当時の常識的な掟に縛られる。もちろん悪徳からも逃れなければならない。いやむしろ、エピクトテスの言うところによれば、進んで神々を模範としなければならないし、悪徳からは距離を置かなければならない(王権なんてどうでもいいのだ)。なぜなら、それこそが意思のあるべき姿だから。そのためには意思そのものの探究と鍛練が必要なのだ、哲学をするとは、意思の探究と鍛錬を言うのであり、あるべき姿、エピクトテスの言うところの自然本性にしたがって生きる事を目的とした実践的な意思の練磨なのだ。


 あとがきに海外の自己啓発本での引用回数の多い哲学者のひとりにエピクトテスがいるらしい。悪い冗談だと思った。しかし、いかにも自己啓発本で一発当て用とたくらむ連中の考えそうなことだとも思った。最高善は、意思の自由であり、贅沢や出世とは俗世の争いに過ぎない、夢を追おう! 禁欲生活を実践しよう! 奴隷哲学者エピクトテスはこんなことを言っている! まぁ、そんな所だ。なんとなく偉大な感じのするラテン語哲学の印象にいくらでものっかるがよろしい。稼ぎも細く、出世の道もないような人たちの中ではびこる逃避的精神主義は、金もかからず、徳が高いことを周囲にアピールしたい、選良たちを資本主義の犬どもと見下したいかなり醜い下心とよく調和しエスカレートさせるのだ。この世の終わりまでベストセラーであり続けよ。


 エピクトテスはたまに本音を言う(こう言うところは『自省録』の作者と違って人間味があっていいと思う)。彼は、哲学生活を実践したいという若者たちに対し、自由になるとは、俗世の誘惑をすべて断ち、あの時代にあって故郷を遠く離れた場所で報われることのない精神の鍛錬を続けることなのだ、と。哲学とは、逃れられない人間の悪しき部分との生涯をかけた戦いなのだと。次の問いを常に胸に抱いて。


 自分の心に現れたことならなんでもしたがう人たちは何と呼ばれるだろうか。

「気が違っている人です」

 われわれがしていることはこれとは別だろうか。

エピクトテス(國方栄二 訳)著『人生談美』164頁