2019年6月19日水曜日

志賀直哉/『暗夜行路』

志賀直哉の『暗夜行路』は、20代後半くらいの小説家の半生を描いたもので、その間のほぼ人生全体にわたり、雑多なテーマをこなしていくが、基本的には、恋愛話が中心である。恋愛と言うと、男と女の磁力の強弱を扱うのが恋愛小説始まって以来衰えのない流行りだが、こういうものは全然なく、主人公の性欲が根源となって相手を求めていくところに特徴がある。

 「ちょいと、これでしたわネ」と登喜子は謙作の顔を覗き込むようにして、同じ指を握り返したりした。そんな時、他の人の場合では、感じない鋭敏さを以って、その握り方の強さを彼は計った。『暗夜行路』第一2

 彼は放蕩を始めてから変にお栄を意識しだした。これは前からもないことではなかったが、彼の時々した妙な想像は道徳堅固にしている彼に対し、お栄の方から誘惑してくる場合の想像であった。『暗夜行路』第一11

 かと言って、人間の本性を暴いたとか、そういう風でもないのである。
 ところで、書いた本人は、テーマについて「女のちょっとしたとういう過失が、――自身もそのために苦しむかもしれないが、――それ以上に案外他人も苦しめる場合があるということを取り上げて書いた。」といっており、確かに大筋はこれに基づいて主人公の行動指針は定まっていく。途中主人公が東京から尾の道に居を移したのもこれが原因であるが、そうこうしているうちに京都で結婚している。結婚して生活が始まるのもまた恋愛小説ではあまり見ない展開ではないだろうか。

 私が面白く思ったのは、この長編は、夏目漱石から『こころ』の後の朝日新聞小説欄を任されて書き始めたという話で、「ちょっと難しい」と志賀が回答したところ、「書けないことを書いてしまえばいい」と言ったそうだ。そういうわけか、『暗夜行路』の新婚生活中の描写に、全然筆が進まなかったことが書いてあり、「小説の書けない小説家」というテーマもこなしている。この手のものは、大抵小説家の愚痴が、担当編集や批評家風読者の悪口と一緒に料理されているのが普通だが、まったくそういう気配はなく、主人公の新婚生活は如何にも幸せと言う感じが出ていて、多少不幸がないと筆も進まないものかと思いながら、読み進めていくと、そうでもないことがわかる。

 志賀直哉の『暗夜行路』の感想を書こうと小林秀雄の『志賀直哉』を読み直した。とても参考になったが、その彼にしても、この作品から受ける無駄な読後感のなさと言うものとの格闘の後がないわけではなかった。ドストエフスキー論の饒舌と比べれば一目瞭然である。「余計な読後感などない」と書いたところで紙幅は埋まらないから、しかたなく読後感をでっちあげるのだ。

 読後感のなさの原因は、文章であるように思われる。志賀直哉の文章一般に言えることは、余計な事を考えさせないということではないだろうか。ただ筋を追っていく楽しみだけでなく、文章の世界に没入させること、これを陶酔力と言えば、その力は抜群で、ただ上質な読書体験ができるという点でも本書はお勧めできる。

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