2019年11月19日火曜日

セネカ(兼利 琢也 訳)/『怒りについて』他二篇

 セネカ(前4頃-後65)は、古代ローマの政治家、ストア派哲学者。ネロ帝に仕えた後に転向し、壮絶な自殺を遂げた人物とした有名。表紙は、ベーレンスが想像で描いたセネカの最後が採用されている。
 『怒りについて』は、セネカの主著とみなされている。彼の哲学は、この本の3編にもあるとおり、節制や平静、理性の制御など、心を乱さないことが最善と説く一種の幸福論だが、逆説的な言い回しを好み、それがこの文章に戦闘的なイメージをつけたためか、幸福論とは呼ばれない。例えば、人が抱く感情の中でも、怒りについては、一文を費やして辛辣な批判を浴びせている。

 文章は、一般的な論文の形ではなくて、箴言集のように、断片的な考えを散文で少し発展させたものを集めたというもの。考えは上で述べた三点で一貫している。要するに、三つの変奏曲である。多角的な視点で、情念の激しい運動がいかに良くないものかを語っているといえば聞こえはいいが、文の修飾やたとえ話に技巧が凝らしてあるものの、同じことを何度も繰り返しているということなので、読んでいて途中で飽きてくるかもしれない。

「怒り」についての優れた観察


 ローマの格言に、「過ちは人の常」とあるが、これは本当の話で、常にカメラと通信が可能となった現代では、程度の差はあれども、私を含め、全人類が過ちを晒しているようなものである。毎日のように第一級の過ちが目の前に届けられる現状は、いまだかつて訪れなかった環境である。一方で、人間は一般に自分の失敗には寛容で、他人の失敗にはきわめて厳しく、失敗や過ちの発見時には瞬時に怒りへと達するようにできている。

 確かに、失敗は失敗である。過ちは過ちである。しかるべき対応を当の本人はするべきだし、関係者はそれなりの対応を求めるのは当然だ。しかし、「しかるべき対応」は、冷静で理性的な環境でなければ案として浮かんでこないものだ。何が起きても追放や抹殺でもって解決とするというのは、いくらなんでも極端でしょう。セネカによれば、この極論的傾向は怒りによるものなのだそうだ。

 最善なのは、怒りの最初の勃発をただちにはねつけ、まだ種子のうちに抗い、怒りに陥らないよう努めることである。一度常軌をはずれ、斜めに進み出すと、健全なあり方に復帰するのは難しい。なぜなら、いったん情念が侵入し、それにこちらの意向がわずかでも権利が与えられた場所には、もはや理性はいっさい存在しないからである。それ以降、情念は、許されるかぎりではなく、欲するかぎりを行うだろう。
――セネカ『怒りについて』101頁

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