2017年1月3日火曜日

カフカ(高橋義孝訳)/変身 - 1

『変身』について


 フランツ・カフカ(1883-1924)の『変身』ついて感想を書くのであるが、もうほとんどの人間にとって、新鮮な気持ちでこの物語に接することは不可能のように思われる。近現代ドイツ文学の代表的問題作として、聞いたことはある、あるいは、名前だけは知っているとされる、そういう作品のひとつだろう。知名度のある作品の多くはこの手の宿命を持っているものだ。私にしても、昔高校生をやっていた時に、安部公房氏の『棒になった男』なる作品に影響を与えた作品として紹介されたことで覚えているくらいだから、まじめな人は鮮明だろう。とはいえ、真面目とは徹底した試験対策を意味するので、せいぜい「この作品に影響を与えたとされる作品名を答えよ」という問いで点数を稼ぐため、頭に詰め込んだ文字列として知っていたにすぎないだろう(受験にすら使えないのである)。何となく偉大な作品だろうというイメージはこのような過程を経て出来上がるものだ。しかし、イメージとは、バカにならぬ宣伝方法である。何年とたった今、私は本屋で目に入った背表紙に記憶が刺激されたのをきっかけに、この本を手に取ったのだった。私も伝統的な古典作品への道を歩んだと言えるのである。
 年齢が成熟をもたらすことはない。一方で、イメージからなる後光ははっきりとしている。ドイツには、フランツ・カフカ賞なるものまであるそうな。敷居の高さを感じている。『棒になった男』をあしがかりに、『変身』について書いてみたい。

 私の頭に残っている『棒になった男』の記憶は、授業風景とわかちがたいものがある。この小説の主人公は40代から50代の男性なのだが、もうこれだけで主人公はちょうど目の前の国語の授業を仕切っているに教師に違いあるまいといった具合に結びついている。彼は、家族サービスの一環だろう、家族を連れてデパートに来ている。昼飯を食べ終え、子供は屋上の簡易遊園地に任せて、妻は再び買い物へ出かけた。自分は屋上の脇の欄干に身をゆだね、下の方で響く車の往来の喧騒をぼんやりと耳にしながら、怠惰な雲がぷかぷかとうかぶ空を仰いでいる。のんきに煙草でも呑んでいたかもしれない。この余暇のいかにも退屈な風景は、授業の生ぬるい空気そのものであった。窓の外では体育の授業のほか、それこそ雲が浮かんだ青空以外に見るものがなかったのかもしれない。黒板に視線を戻せば、まるでこれから棒になろうとしてる中年太りの男性教師が、よく響く声で、聴く者を絶望させる朗詠調でもって、じっくりとこの物語を読み込んでいる。

「そのとき、ハッっとした瞬間に、手すりから体が滑り落ち、男は宙を舞った。とっさに目を閉じて、気が付くと、道端に横たわり、棒になっていた。――しかし、なにもおこらない――」

 教師はこのあたりから、フランツ・カフカの『変身』の影響について云々するわけである。

『棒になった男』と『変身』


 多くの人々にとって、批評家が好んで使用し、今日に至るまで濫用の感ある「影響」という言葉を知ったのは、『棒』に関する授業で『変身』の名前が現れた時ではなかっただろうか。名作の成立過程は、まるで小説の筋のように組み立てられるのが普通である。古典は未来の名作の踏み台として存在するといわんばかりだ。影響と書けば、提灯持ちは対象の作家を偉人の後光に包むことができるし、批評家も古典通であることを言えるので、なくなる気配が全然ない。とはいえ、大作家連中が古典(昔から名高い作品)に全く興味がなかったなどということは、ちょっと考えられないのである。影響は、確かにある。いくら天才中の天才と言えども、数年で文章家になるには、少なくとも手本が必要である。彼らは古典を参照し、どこかの部分はうまい言い回しだと思って自分の作品の中に取り入れ、プロットを拝借し、言い回しも物語も全くの別物の話に思想上の移植手術を成功させた。このように、影響といっても一口に処理できるものではなく、それは物語の数だけ物語があるようで、手間のかかる作業なのである。

 『変身』が『棒になった男』に影響を与えたという話はもっともなものだ。こんな珍奇な設定を現実の場面に持ってくることを思いつくものではない。しかしながら、それは安部氏がある日突然主人公が人間ではない何かに変わってしまうというシュールレアリズム的設定や文体に興味を持って自作に応用したからという点に限られるのであって、『棒になった男』が『変身』の主題による変奏曲とは言えない。二つはまったく別のものを描いている。  

 『棒になった男』の主人公は、運悪くデパートの屋上から転落し、空中で棒になり、道端に落ちる。問題なのは、「なにもおこらない」ことだ。往来は奇譚に似た現象を目の当たりにしているはずが、不気味なほど平然としている。なるほど、棒や男がビルから落ちてくることは、まぁ、よくあることかもしれない、それはそれでよろしいが、デパートには屋上で遊ばせている子供となかなか買い物から帰ってこない妻がいるのだが、そちらに関しても何の音沙汰もないのはどういうことか。まるで自分は人間であった当時から棒のような存在ではなかったか。これが主人公にとっての事件なのである。どこかで偶然見かけた誰かの評のように、『棒になった男』は、疎外の叙事詩である。

 一方で『変身』となると事情が大きく異なる。  『変身』では、グレーゴル・ザムザという働き盛りの男が、ある日目を覚ますと虫になっていたところまでは似かよるけれども、虫への変身は導入にすぎない。逆に多く紙幅が割かれているのは、ザムザ家を襲った不幸についてだ。奇譚の力は、読者に対して奇妙な生活スタイルを提供するにとどまるものではなく、一家に対して恐ろしいリアリズムの威力でもって襲いかかる。ザムザ家の収入は、外交販売員であるグレーゴルの収入に頼り切っていた。
 グレーゴルの父は、ずっと前に家業で破産して借金がある。母は肺病に侵されている。妹は働くには若すぎるうえに、社会とは何の関与もなくヴァイオリンを弾いて閑暇を過ごすといった体であった。一家にとって、グレーゴルが虫になってしまったということは、グレーゴルが死ぬか行方不明になったか、もっと忠実に言えば怪我で体が動かなくなってしまったということであり、つまるところ、収入が途絶えたということを意味する。ザムザ一家は、グレーゴルが消え虫が残るという事実を、否が応にも受け入れざるを得ないのである。作者がこの恐ろしく単純な悲劇のシステムを選んだ点は、注意してもよい。それに、カフカの選んだ文体である。おそらく、カフカが事実や風景に対してほとんど詩的な情緒をあたえることをせずに、カメラによる撮影のような透明度の高い文章を礎石として物語を組み立てているのは、この物語がいかにも現実でおこったこととして我々に提出したかったためだ。

 文庫本の裏には『変身』の紹介「ふだんと変わらない、ありふれた日常が過ぎていく。」は、うまくないのである。これはむしろ『棒になった男』に対して贈られるべき説明で、変身によって一家の関節が外れてしまった『変身』の冷え切ってしまった団欒風景には似合わない。
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