2017年1月23日月曜日

ディケンズ(池 央耿 訳) /『二都物語』

二都物語 上 (古典新訳文庫)
ディケンズ
光文社 (2016-03-11)
売り上げランキング: 19,353

 全世界2億部の大ベストセラーだとのこと。売れた売れたと言われているソードアート・オンラインシリーズも2000万部で、これも大変な数字だが、日本全国民を凌駕する人間らを魅了したことを意味する、二億という数字の巨大は、文字通り桁が違うという感じがする。

 といっても、自分にとっては取り掛かりやすい作品ではなかった。しかし、そんなこともこれまでのようだ。旧訳では回りくどくてどうも内容がつかめなかったが、池氏の訳では流れがよくなっており、読みやすさが増した。

 この物語の翻訳は二種類持っているが、訳文は、こちらの方が優れている。あとで書くように特に好きな本というわけではないのだが、前に買った本では最後まで読みとおせるのか不安なレベルだったので、二冊手元にあるのである。

だが、私には合わなかった


 『二都物語』革命期のパリとロンドンを舞台にした、政治運動の荒波に巻き込まれた人々の群像劇である。バルザック以来、われわれの住んでいる町を主人公たちが歩く小説は一般化したようだが、ディッケンズという隣人がいなければ仕事が全然はかどらなかった作家からしてみれば、当然の舞台であったといえるのかもしれない。そして、社会を描くということは、社会に対して一定の判断を下すことを含んでいる。

 ディッケンズの社会に対する一家言は、同時代のサッカリーとともに社会の不正に表立って嫌悪を示していた作家と見なされているところに現れているが、ディッケンズは加えて暴徒と化した大衆というものも生理的に嫌っていたようである。少なくとも「忘れもしないあの二月革命」とは書かない。あれほど皮肉を詰めこんで描写した大公閣下(フランス)の朝の支度を書いた150ページあとには、見るも無残にさらしものにされた元大公を獣的に破滅させる場面を延々と描いている。これは例の一つで、ロンドンの町については、道端で酒樽が割れてしまいこぼれた酒を近所の住民らがそろって舐める様子から始まる。ロンドン市民は道をなめる。主要人物ダーネイの実家が領民によって荒らされている場面(イギリス)もある。いずれにしても彼の描くところ、一般には映画的と言われているようだが、それは一括して人の運動を捉えるという点で一致しており、その運動は単純である。彼はこう言うものを氾濫した川の濁流くらいにしか考えていなかったようだ。濁流は泥を大量に含んでいる。
 ディッケンズを指して抑圧された人々の最大の同情者という評判は、隅に注釈を要する見解であるように思われる。

 ディッケンズが肯定的描くのは、一般に肯定的なものと思われている物、会話の楽しみ、交流の楽しみ、家族の情愛というものだった。私などは、作家はどうしてこう言ったものの最大の愛好者の顔をしながら、執拗にロンドンの貧民街やパリの暗黒時代に隣り合わせで居続けようとさせたのかと不自然に思った。無論、読者は日常の退屈をしのぐために小説を読んでいるのだという作家の実生活上の要請があるためでもあろう。ささやかな幸せと凶暴な破壊衝動の対比が、読者の関心に臨場感と共感の薬味を添えたのかも知れない。それにしたって、下巻の筋は私には不可解である。ダーネイは何故人語を解さない暴徒を説得して囚人(投獄は冤罪によるのだとか)を助けようとしたのか。作家は、それは要するに正義感によると書いているのだが、まぁ、彼の発心は大目に見よう、作家の無理筋を見つめまい。しかし、関係者一同が、生命に関わる無理難題を吹っ掛けられてダーネイの行動に一切の疑問を挟まずに根回しに取り組むのは、かなり不自然である。妻の心からの告白(と書いてある)も媚態を感じてしまう。旦那は妻と子供を残して正義の実現のために死地へ旅立ったのであった。作家は、いくら不自然であろうと利他精神読者に疑問を挟むのは人倫にもとるのではないかとでも言いたいのだろうが、こういう理論武装も幻影として見えるところにまで私の退屈は来ているらしい。プロットの不自然さなど問題ではない。私は登場人物がどういう顔をしているのかさえ忘れようとしている。


二都物語 下 (古典新訳文庫)
ディケンズ
光文社 (2016-03-11)
売り上げランキング: 15,463