2018年8月1日水曜日

サン=テグジュペリ/『戦う操縦士』



 著書の体験に基づく私小説。フランス空軍の偵察機パイロット時代をえがく。戦況は圧倒的に不利であった。

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 著者のサン=テグジュペリという人を私は、『星の王子さま』の作者と言うことで、漠然と繊細な傷つきやすい感性を持った作家だとばかり思っていたが、どうも違うようである。この人は、自分の肉体と精神を生命の炎のようなもので焼き尽くしてしまいたい、そういう風に考える人で、いわばロマン主義演劇の主人公のような、言い換えれば熱血漢とでも言えよう。

 彼が飛行機に乗るのは、空と言う死の世界で、過剰な情報による神経の摩耗を得られることを覚えたからで、彼が本を書くのは、自らが死ぬこと(燃え尽きること)を、なぜこうも求めるのか、その自問に対する彼なりの回答である。彼の書く事に目新しいものはない。彼がヒトラー批判を展開するのは、彼がたまたまフランス人であったからにすぎない。フランスが彼の育んだ大地だから、彼はフランスの肩を持つ。こういう単純な構造にもかかわらず、世のプロパガンダ批評家、半端な政治評論家は、民主主義の意義などといったものをこの本に見出したが、無論これは誤りだ。世の教養人はサン=テグジュペリのフランス官僚機構への批判を忘れる。同様に、彼の説くヒューマニズムから、排斥的ナショナリズム批判を見出すのもまた誤りである。たとえそれが一般論から批判の対象にするのが妥当であったとしても、彼は政治的宣伝を発明したいわけではないから誤りだ。むしろ、彼の義憤は、排斥的ナショナリズムと見られる可能性の方が高いだろう。

 サン=テグジュペリにしてみれば、答えであれば、幼少期の記憶から湧きあがってきたもので充分だったのであろう、例えば、牧師の説教で十分なのである。譲館から死にに行くようにとの命令とほとんど同義の出撃命令を受け、ドイツ軍偵察を敢行し、見事帰還する。彼の暗い色調と、機械的惰性と化した社会とフランス批判はここに見られる。それが、幼少期の叔父の記憶と交わる。しかし、空が彼を変える。正確には、地上より降り注ぐ弾幕の壮絶な光景が彼を一変させる。死地からの帰還後、宿営地を描く彼の筆致はおそろしく心理的だ。まるで目に入るすべての瞬間を噛みしめるかのような、生きるとはこの中で生かされると悟る。しかし、いくら優れた作家であるからと言って、どれほど目に入った人物を詳細かつ生き生きと描いて見せたところで、作者の充実した優しさと心に触れるする事は出来ない。せいぜい、命の大切さという死に体の題目が頭をよぎる程度だろう。

 それから展開される、恐ろしく単純化された、友愛と人間についての彼のキリスト教風宗教論は、誰の目にも入らなかったに違いない。桜花思想風の自己犠牲的郷土愛を誰の目も逃れたのは不自然と感じるほどだ。あまりに当たり前な事だからだろうか? 現代ではそうではあるまい。無論、みんな仲好しが一番などとは一行も書いていない(彼はノルウェーのためにドイツを打つのだから)。彼が見出したのは、誰かのために死ぬことができるという一事だ。 

 続くあれほどの努力を払って説いたヒューマニズムは、人間という石が築き上げる大聖堂は、読者にとってはただの言葉に過ぎないのだ。あるのはただ、サン=テグジュペリの告白だ。しかし、読者は書き手の真摯な態度に感化されて聞き入る。それがこの本の魅力の源泉である。いや、サン=テグジュペリの書くもの全ての美しさの基調を成すと言っても良いだろう。しかし、やはり彼の充実した優しさと心に触れる事は出来ないのだ……。それまで空虚な文字の羅列であったものが、生き物の温かみでもって胸に迫る経験は、自らの体験によってのみ可能である。これが教訓としてのサン=テグジュペリの本とでも言えようか。

 『戦う操縦士』とはサン=テグジュペリ自身のことである。死地こそが彼が彼を知ることのできる唯一の場所であった、それは彼自身がよくわかっていただろう、書くこととは、ただ説くことが目的であったとは筆者自身を知らなかったのかもしれない。恐ろしく個人的な重みを背負っている文章を、見る人は見るだろう。サン=テグジュペリの精神は、死を受け入れようとする、肉体の衝動を追う。恐ろしく明晰な筆致で。彼がいつもおのれ自身を知るのは、空の上であった。サン=テグジュペリの文体が、明晰と幻想が交錯するのは、いつも空の上なのであった。そうしてようやく地に足が付くとは、因果な迂路ではないか。