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2020年2月19日水曜日

フローベール/『ブヴァールとペキュシェ』


ブヴァールとペキュシェは、私たちだ。


 退屈と言えば、退屈の一言で片づいてしまう作品である。筆耕(清書係みたいな仕事だと思う)の中年男性二人ブヴァールとペキュシェが、幸運にも手にした遺産を元手に、田舎に引っ込んで様々な趣味にいっちょ噛みしては中断し、最終的にはすべてを失い、仕事に戻る、そういう話である。物的人的変動がない作品のことを「中身がない」と言うのが現代の流行りだが、その尺度から測れば中身がない。しかし、周知のとおり、『ブヴァールとペキュシェ』は、フローベールの最後の作品だが、それに至るまで、ずっと「中身がない」作品を書き続けていたわけではないのである。不倫を描いた『ポヴァリー夫人』から始まった彼の仕事は、パリの若者が経験しうる一切のこと(『感情教育』)、地中海アフリカ側の神話的歴史小説(『サランボー』)、世界中の神話宗教の傍若無人な戯曲「折伏合戦」(『聖アントワーヌの誘惑』)をも対象とするところまで行った。このように軽く見渡しただけでも広いと言わざるを得ない。そして最後は、最も詩的な世界から遠い、中年独身男性のリタイア物語。見事だが、退屈で、決して他人事とは言えない醜悪なディレッタンティズム、マニア・オタク連中のなれのはて、確かに文学に現れた新しい登場人物である。言葉はこんな連中も描く事が出来る、と。

 ポール・ヴァレリーは、フローベールについて書いた文章の中で、その文体についての賛辞を惜しまず、そのもっとも高い豪奢に達した『聖アントワーヌの誘惑』の誘惑については、絶賛しているが、それ以外については辛辣である。作者の書簡まで引用して難じているが、描かれる対象の凡庸退屈は作者とて同じく実感し、心境も同じくしていたことが、その引用された書簡には語られている。「どうしてこんな退屈なバカどもを描かなければならないのか」と、書く苦痛を経て、どうやら完成して、読者に読む苦痛を与えるという、一見して時間の無駄としか言いようのない営みがつまびらかにされている。『感情教育』の読書中はたいして響かなかったヴァレリーの感想文は、『ブヴァールとペキュシェ』を読んでいる時から、読み終わるまでは、ずっと私の頭の中に居座って動こうとしなかった。当時の現代を取り扱って、余すところのない知識と社会と都会田舎の人間模様を描く。ただし、美しい瞬間はほとんどない。

 知人にヴァルター・ベンヤミンを読み始めたという人があって、「たしか自分が勧めたんだっけ」と、一方で私は多く読んでいるわけではない。随分無責任な周知活動を反省し、手に取った文庫版コレクションの中に、バルザックに関する一文が載っていた。ベンヤミンが言わんとするところは、私が読んだところでは、要するに、形而上学的哲学的問題の具体的な一般的な人生の中での解決である。哲学とは言葉遊びではない。かつてプラトンが、生活から抽出した抽象的な概念を、再び具体的な生活の中へと戻す作業である。バルザックが『人間喜劇』で描くところが、現代である必要は、一つは読者獲得のためであっただろうが、現代の諸相を描き分けるにあたって、どうしても精神的世界の描き分けが必要だった。文学における人間の差は精神の差がほとんどであるから。そこで天才バルザックが捉えたのが、生活人の精神世界の、各々個人個人が内蔵する包括的ルール、つまり哲学であり、その再発見について、ベンヤミンは、次のように書いている。

普遍性[広範性、譜包括性]のある部分は、フランス精神が形而上学的な問題においていわば一種の分析的な生活測量(Geometrie[幾何学])」のやり方に従って振舞う、ということに基づいている。すなわちフランス的精神は、ある方法に依拠したもろもろの物[事]の原理的な解決可能性という圏域を知っており、その方法とは、個々の所与の事柄の個人的な(いわば直観的な)深みをめざすのではなく、所与の事柄を、それらの解決可能性がすでに確定している方法的なやり方で解決するものである。(ヴァルター・ベンヤミン著 浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』二十六頁

 あわせて、その具体的な姿は、「非-深み」として立ち現れるとし、加えてそれらは、「浅薄さあるいは皮相さを謂うものではない」と念を押している。バルザックと同様に、このようなフランス精神的手法でフローベ―ルが哲学を披露したという考えは、少なくとも私にとっては納得がいく説明だった。すなわち、フローベールが緻密で退屈な『ブヴァールとペキュシェ』で描いた哲学は、この世のあらゆる楽しみは、それを渇望する欲求以上のものではないという諦念から来るペシミズムである。それはちょうど生活人の溜息のようなものだ、さ、各々仕事に戻りたまえ、と。

 この作品、熱心なファンがいるらしく、2019年には新訳が出た。私は全集で読んだ。

2019年8月19日月曜日

フーコー(阿部 崇 訳)、他/『マネの絵画』他

哲学者フーコーが、画家のマネについて語った講演を文書化したものと、フーコー研究者あるいは哲学者によるフーコー論が8本組み合わされた本。

 その他のフーコー論は、フーコーのことをよく知っている人に向けに書かれたものだろう。氏の職業が哲学者である以外、何も知らない何を言っているのかわからない部分が多々あった。「チェニジア時代のフーコー」と言われても何のことやらわかりません。

マネが実用化した新たな絵画規則


フーコーの講演は、マネの当時における革新性を解説したもの。分かりやすい。前知識なしで読書に支障ない。ボードレールのドラクロワ論が、何が描かれているかよりも、どう描かれているかという点に的を絞って書かれていたが、それと同様の趣向である。マネの仕事が、ただ革新的な面をアピールするばかりではなかったにしろ、彼が意識的に革新的な「画面の使い方」を作品に採用したのは紛れもない事実であると、解説はこの「画面の使い方」に絞ってされる。論点は以下の通り。

・キャンバスという空間
 画面の幾何学図形的構成と奥行きの使い方について。
・照明
 光源の位置について。
 有名な『オランピア』に描かれた女性を照らす光は、鑑賞者の位置に光源があるため、あたかも鑑賞者がこの女性を照らし暴いている関係に立つという。
・鑑賞者の位置
 『フォリー・ベルジュールのバー』の鏡の中について。

 フーコーの語り口は、ほとんど美術評論家のもので、マネの革新性だけでなく、それまでの西洋で採用されてきた絵画規則まで勉強になってしまう。普通こういうたぐいの議論には、誰に影響を受けて、どう後世への影響を与えたかを長々と喋るのが一般的だが、フーコーはほのめかす程度で、議題以外のことに余計な事をほとんど考えさせない工夫を施すところは、解説者として上質な部類に属するとさえ思える。

 巻末の本の広告をみると、フ-コーは狂気とか監禁についても書いているようだ。まったく想像が出来ない。狂気、監禁、それに性もそうだろうが、理性の欠けた行為とされるものを理性で捉えること、これは理性による本能の征服と言えようが、古来より文章の書き手が苦しんできた絶望的な戦いも、みんなマネ論のように明快な調子で書かれているのだろうか。

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2018年9月5日水曜日

『古代ローマ旅行ガイド』と『バルトーク音楽論選』

 7月に買った本は『古代ローマ旅行ガイド』『バルトーク音楽論選』の二冊。ちくまさんは、電子書籍に積極的ではないようなので、紙の本を購入した。


 『古代ローマ旅行ガイド』は、ほとんど題名と表紙で買ったようなものだ。ローマと言っても、カエサルやらキケローやら偉人への興味が先に立つのが教養界の特徴で、どうもこの驚くべき国の様子については、なかなか触れることができなくて今日まで来た。喉の渇きに水、砂漠にオアシスと言うわけだ。『古代ローマ旅行ガイド』と、ちょっと俗受けを狙ったような感じもするタイトルだが、どうせこの手の本を書こうと思いつくのは、碩学の方ぐらいである。にわか仕立てでは一行も書けやしない。なぜなら、この手の本の中には、実在する(した)ローマ人の生活サイクルをもとに、読者への興味を引き立てる必要があるからだ。必要な作業は蘇生である。作文の上での蘇生。でなければ、誰もローマに行ってみたいなどと思ったりはしないだろう。生活環境は、遠隔地であればどうしても異なるもので、我が国においても、県ごとの生活スタイルで一つテレビ番組が出来上がっているくらいで、いわゆる風習の類は、どうしても人の目を引かずにはおれない。これの応用がバルザックの小説だ。つまり、旅行ガイドには、バルザック的手腕が必要なのである。
 碩学とともに、ユーモアも欠かない本書は、紀元前後ローマ旅行ガイドとしては優良の書と言えましょう。食べることのできない食べ物、見ることのできない史跡や出し物に思いを馳せましょう。
 挿絵多数、引用豊富。ラテン語例文集は、何の役にも立たないこと請け合いです。


 バルトークは、近現代作曲家。この名前を見ると、独特の渋い不協和音と荒々しいリズムを思い出すのであるが、民俗音楽の収集家としても有名である。

2017年1月19日木曜日

メルロ=ポンティの文庫本

 作家の名前もツイッターで流れてくる短文で知る時代となった。 メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)


知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)